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2025年7月15日 (火)

『「視点」の違いから見る日英語の表現と文化の比較(正・続)』~英日で「誰々が言った」を訳出すると不自然になる理由

物語の登場人物同士がやりとりをするとき、英語は「誰々が言った」とほぼ必ず明示されているのに対し、日本語で書き下ろされたものだと、そのあたりを明示しないことが多く、なんならセリフだけが並んでいたりします(そういう形で誰が語ったのかがわかるように書かれている。たま~に誰の言葉かわからないこともあるけど)。

そういう違いがあるので、英日翻訳で英語の「誰々が言った」を訳出するとなんか不自然に感じることが多く、私はなるべく訳出せずにすむ工夫をしますし、あまり訳出しないほうがいいみたいなこともよく言われます。

とまあ、そのくらいの理解で、この問題が頻出する書籍をやるようになってからの20年、仕事をしてきたのですが、先日、もしかするとこういうことかなぁというレベルながら、このあたりについて、一段、言語化ができるようになった気がします。

きっかけは、翻訳フォーラムシンポの「さきの×Buckeyeバトルトーク」で参考になるかもと『「視点」の違いから見る日英語の表現と文化の比較』を読んだこと。

この本は続があるのとないの、2冊あって、続はバトルトーク予習用に買った。続がないほうは2年前に買ってツンドクしていたのでそれを読んだ(^^;)

いまから読むなら「続」だけでもいいかもしれないが、一般には、元のほうから2冊とも読むことをお勧めしたい。この2冊でくり返し検討していることの基本は、元のほうに詳しく書かれているからだ。

この2冊に書かれていることを乱暴にまとめると「舞台で演じられている物語を語るとき、英語だと、登場人物が客席側にいて、そこから、自分の周りにいるお客さん(読者)に語る形が基本になる。対して日本語だと、舞台上で演じている登場人物が客席のお客さん(読者)に語る形が基本になる」あたりでしょうか。

私も、ずっとこういうふうに理解していました。というか、こういうふうにしか理解できていませんでした。でもいまなら、そのあたりについて詳しく検討した本書2冊を読んだいまなら、もしかするとのレベルではあるけれど、もう少し明確に言語化できる気がします。

日本語の場合、語り手は現場にいて、自分が見ているとおりに語るのが基本です。そのとき、目の前にいる人を指し示す代名詞に「彼・彼女」を使うでしょうか。少なくとも私は使いません。使うのは、「この人」とか「こいつ」とかでしょう。対して、「このあいだ、こんなことがあってね」と語るときには、「彼はなにを考えているんだと思ってしまったよ」など、「彼・彼女」を使うがちな気がします。

こう考えると、「彼・彼女」はそのシーンと語り手との間に距離があると示す、とも言えそうです。そして、であるならば、その場にいて「イマココ」を記述するとき、つまり、そのシーンとの距離がないとき、「彼・彼女」というシーンとの距離を感じさせる言葉は使えないことになります。

このあたりから、英日翻訳で「彼/彼女が言った」は使いにくい、だれが言ったのかを示す必要があれば、人名や役職など、その人物を具体的に表す方法にしたほうがいい、となっているのではないでしょうか。

さて、では、「(人名/役職)が言った」ならいいのでしょうか。

収まることもあれば、なんとなく収まりが悪いこともある……と私は感じています。特に人名にした場合、収まりにくいように感じます。

この理由も、今回、もしかしたら少しわかったのかもしれないという気がします。

日本語だと、知り合い何人かと話をしているとき、その知り合いについて考えるときにも、「~さん」「~くん」などと接尾辞を付けるでしょう(少なくとも私はつけている)。でも、英日翻訳では付けないのがふつう。そして、「接尾辞がない」=「その人を客観視している≒彼・彼女と同じく距離感が出る」なのではないでしょうか。逆に、「『だれそれが』を明示的に書かない」=「目の前にいて明らかだから言う必要がない」=「シーンの登場人物と距離がない、シーンの中にいる」と感じられるのではないでしょうか。

この考えが正しいのであれば、問題は、「~が言った」と書くか書かないかではなく、シーンの登場人物に対する距離が遠くならない工夫、語り手はシーンの中にいるよと示す工夫ができているか否かということになるでしょう。

なお、この工夫は、当然ながら、あくまで日本語の問題です。だから、日本語で書き下ろされた物語においてどういう工夫がされているのか、それを拾い上げて翻訳に応用する必要があります。いや、まあ、いままでもそうしてきているわけで、そういう意味では、改めてどうこうではないとも言えるのだけれど、でもでも、「せりふ回りをどう描いているのか」という意識で見るか、「シーンとの距離感をどう調整しているのか」という意識で見るかで、見えるもの、気づくものは違う、はず、だと思います。

さてさて、ン年後、このあたりについて一歩進んでいるか、それとも、とくになにも変わらずにいるのか、どちらでしょうね~。

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