カギ括弧と句点、?などの関係について
文の最後には句点を打つ。それが基本ですが、現実にはいろいろと難しいケースが出てきます。
■文が終わっていることを示す機能
これが一番の機能なわけですが、この機能を果たすのは、句点だけじゃありません。「?」「!」「!?」なども使われたりします。句点以外のものを使う場合やカギ括弧がある場合は悩ましいケースだと言えます。
■「?」などを使う場合
この場合、後ろ全角一マス空けが基本になります。
え? そう思った方も少なくないのではないでしょうか。ツイッターやブログで全角アケにしている人はめったにいませんから。でも、さきほどのところ、「え?そう思った方も少なくないのではないでしょうか」ってしたらなんか変だと感じませんか?
我々翻訳者は物書きの端くれだと思うんですが、そういう仕事をしていて、なお、「?」などの後ろを全角一マス空けにしない人、少なくありません。正直なところ、日本語の本を読んでいるとき、なにを見ているのだろうと思ってしまいます。まあ、えらそーなことを言ってる私も、翻訳専業になって何年かはまるで気にしていなかったように思いますけど(^^;)
勝手な想像なのですが、句読点は、ある意味、空白に近いから句読点として機能するのではないかと私は思っています。「、」も「。」も、ぱっと見、そこが空間に見えますよね? だから、文がそこで切れていると感じられる、と。先日の段落頭カギ括弧じゃありませんが、見た目から受ける印象って大事だと思うんですよ。
対して「?」「!」「!?」などは、マス目が埋まっている感じになります。つまり、それだけでは、切れ感が足りない。かといって、「?。」とかするのはどう考えても変です。なので、「? 」と後ろ全角一マス空けにするのが自然ということになったのではないでしょうか。
逆に言えば、そこで文章が終わらなければ、「?」「!」「!?」などの後ろを全角一マス空けにする必要はない。いや、空けちゃいけない、と言うべきですね。
どういうことかというと……
え? そう思った方も……
え、どういうこと?と思った方も……
上は「え?」で文章が終わっています。次が「そう思った方も……」で新しい文が始まっていますから。でも、「え、どういうこと?と思った方も……」はこれで1文です。だから、「?」の後ろを空けていないわけです。
■カギ括弧がある場合
「?」などを使う場合は比較的簡単なんですが、カギ括弧はややこしい。ほんと、ややこしい。こうすればいいという正解がないというくらいにややこしい。実際、出版の世界でも、いろんなパターンが使われています。
●主なパターン
- 「……。……」……
- 「……。……。」……
- 「……。……」。……
1は、文芸系などで一般的なやり方です。
カギ括弧は、空白準拠です。これは、「段落頭のカギ括弧」のような話であることからも明らかです。言い換えれば、カギ括弧で文が切れていることは示される。だから、これでいいと言われれば、一理あるなとは思います。
もし、句点は空白準拠のスペースを設けることで文と文を切り離すものだと考えるなら、句点と閉じるカギ括弧、両方を使うと、空白がふたつ続くことになってしまいます。それは間延びしちゃうから変だ、だから、カギ括弧の前後に句点は入れないと言われれば、それまた、一理あります。
でも、私は、きらいです。
カギ括弧って、句点ほどの空白感がないんですよね。空白準拠とはいえ、マス目、ほぼ埋まってますもん。だから切れ感が足りなくて、文が切れているようなつながっているような、すごく中途半端な感じがしてしまうんです。
文と文が切れている、ここで終わって次が始まるって感覚、読むときに大事だと思うんですよね。これはその感覚が足りない形式で、私は、つい、続けて読みそうになってしまい、ああ、ここ、文の切れ目だったのかとちょっと戻って考えるなど、内容とは関係ないことを意識しないと読めなかったりします。
もう一点。つい、続けて読みそうになる理由でもあるんですが、カッコを閉じても文が続くケースもあって、そちらと見分けがつきません(カッコを閉じても文を続けられることからも、切れ感が小さいことがわかります)。
「……。なぜだろう」そう思った方も……
「……。なぜだろう」と思った方も……
上は文が切れているけど、下は切れていない。だったら、形式的にもそれをはっきりだすべきでは? そう、思ってしまうのです。形式で区別されていない=どっちだろうという判断を読者に強いる、だと思うので。
というわけで、なのかどうかは知りませんが、ノンフィクション系でわりと使われているのが2です。
これは、カギ括弧とはあくまで引用、発言、強調などを示すもの、という考え方でしょうか。だから、最後の文の最後にも「。」をつけて文を完結させ、そこまでをカッコでくくるわけです。
句点があるので切れ感は十分に生まれます。ただ、ねぇ、後ろとのつながりが、なんか変な気がしてしまうんです。だって、」……ってなるんですよ? そこで本当に文が切れるのか、つながるのかの区別がつかないっていう上記の問題も解決されません。こちらは、後ろにつながるときはカギ括弧前に句点を入れなければいいのかもしれませんけど。
「……。なぜだろう。」そう思った方も……
「……。なぜだろう。」と思った方も…
「……。なぜだろう」と思った方も……
だからなのかなんなのか、これまたわからないのですが、もうひとつ、ノンフィクション系でわりと使われているのが3。
句点があるので切れ感は十分に生まれます。後ろも、句点の後ろに次の文が来るので、見慣れた形になります。文が続くか切れるかも、ちゃんと表現できます。
「……。なぜだろう」。そう思った方も……
「……。なぜだろう」と思った方も……
でも、ねぇ。カギ括弧後ろの句点は、どういう句点なのでしょう。
カギ括弧内に複数の文がある場合、それぞれの文は最後に句点がついています。ついていないのは最後の文だけ。つまり、意味的に、カギ括弧後ろの句点は、カギ括弧内最後の文につく句点のはずです。でも、形式的には、カギ括弧全体に対する句点、ですよね。だって、くくってひとまとめにするのがカギ括弧の機能なんですから、そうやってくくったカギ括弧の後ろに句点を置くのは、そういう意味にならざるをえません。
意味と形式が矛盾する。気持ち悪くてしかたありません。
あと、最後の文が「?」などを必要とする場合は、どうすればいいのでしょう(言葉使いだけでは疑問かどうかわからず、?を必要とする場合がある)。形式を機械的に適用するなら「……。……。……」?ですけど、これはあり得ない形ですよね。じゃ、「……?」。とするのでしょうか? ふつうに疑問符をつけるとき、「……?。」とはしないのに? それとも、そちらに合わせて、「……?」 とカギ括弧後ろを全角一マス空けにする? それもなんか、ねぇ。
いずれにせよ、いろいろ無理があるとしか思えません。
ちなみに、アメリカ英語は、2のパターンです。英語は、ピリオド後に空白があるからだと思うのですが、ピリオドとクォーテーションマークが重なっても違和感が出にくいように感じます。ただ、そのあとまで文が続くときは、「,"」とセミコロンがクォーテーションマークの内側に入り、クォーテーションマークの後ろが小文字で始まるという形式になります。これは、クォーテーションマークが純粋に引用を示すものであれば、「",」にすべきところだと思うのですが、句読点的なものはクォーテーションマーク内に入れる、という原則に従っているのでしょう。なお、そのような形式のとき(クォーテーションマークの後ろが小文字で始まる)、クォーテーションマーク内にピリオドを入れることはしないようです。少なくとも、これまでに訳した本の原書は、すべて、そういう形式になっていました。ということは、クォーテーションマーク内のセミコロンやピリオドは、引用を含む文全体に属するってことのように思えます。だとすると、クォーテーションマークの外に置くほうがよさそうな気もしますし……やはりややこしいようです。
対してイギリス英語は3ということのようです。であれば、上記のうち、引用符の次のピリオドにどういうものなのかと、?や!のときはどうするのか、などの問題を抱えてしまうはずなのですが、そのあたり、どうなっているのでしょう。(イギリス英語はよくわかりませんm(._.)m)
日本語の小説は、一応、1が基本のようです。ただ、そもそも、閉じるカギ括弧で改行され、段落が終わっていることが多く、閉じるカギ括弧で文が終わって、次の文にそのままつながるケースはそれほど多くありません。閉じるカギ括弧で文が終わって、次の文にそのままつながる形式をまったく使わない作家さんも多いようです。
引用やせりふなどの示し方が、英語は段落内に埋め込まれているのがふつう、日本語はカギ括弧ごとに段落となっているのがふつう、と大きく異なるのですが、そのあたり、埋め込んでも違和感なく処理できる英語と埋め込むと違和感が出やすい日本語という違いも影響しているのではないかと、私は勝手に想像しています。
■私のやり方
そんなこんなを考えた結果、いま、私は、以下のようなやり方を基本にしています。
閉じるカギ括弧と句点を組み合わせることはしない。とはいえ、文芸系でよく使われるやり方もきらいなので使わない。つまり、閉じるカギ括弧で文が終わって、次の文にそのままつながる形式は使わない。
具体的には(↓)のように書くことになりますね。
- カギ括弧で文が切れないように書く
- カギ括弧で改行する
- カギ括弧を使わない書き方にする
「カギ括弧で文が切れないように書く」は、「……」と言いながら……みたいにするってことです。
「カギ括弧で改行する」は、説明の必要ありませんよね。カギ括弧内最後の文が終わったことは、改行というか段落というかの切れ目感に頼って示すわけです。
「カギ括弧を使わない書き方にする」は、英語が直接話法になっていても間接話法にしてしまうとか、直接話法なのにカギ括弧なしのパターンにするとか(←単語に視点が制約されがちな日本語なら簡単にできる。単語に視点が制約されると言葉の選択が難しくなるのでふだんは困るのですが、このときばかりは便利です)
結果、できあがるのは、上記、「閉じるカギ括弧で文が終わって、次の文にそのままつながる形式をまったく使わない作家さん」とほぼ同じパターンです。
問題は、訳文作るときの制約条件が増えること、ですね。「主なパターン」として紹介した方法のいずれかを「お約束」として受け入れれば、原文をなぞって訳すことができますが、私のやり方だと、どれを取っても原文となにかずれます。そのずれについて、大きさとかなんだとかを考え、ここはどのパターンを使うのが一番いいのかを考え……と手間が増えることはまちがいありません。
英語をなぞればいい楽なやり方があるのに、わざわざ手間を増やしているわけで、そこまで気にしなくてもいいじゃないかと言われれば、そのとおりとしか言えません。
でも……自分が気持ち悪いと思う文を商品として提供する気にはどうにもなれなくて。料理人なんかもそうなんじゃないですかね。自分と好みが異なるお客さんもいるだろうし、そういう人に合わせて調整するっていうのもアリだろうけど、でも、最低ラインとして、自分がまずいと思う料理は出せない、みたいな感じです。
私は、極力日本語の慣習に寄せることを優先するのでそのあたりはとことん柔軟にやりたいと思っています。読者に翻訳書を読んでほしくないので、形式など、変えられるところは少しでも多く、日本語で書き下ろされた本に寄せたい、と。
とは言うものの……書かれている内容というか、なにをどうピックアップしてどう提示するのかっていう根本的な部分が日本語と英語では異なっていて、かつ、翻訳だとこの部分には基本的に手が入れられないので、いくら形式を日本語に寄せたところで、日本語書き下ろしと同じにはならないんですけど、ね。それでも、少しでもギャップを小さくすべく悪あがきはしたいというか。
そうそう。カギ括弧と句点をどう処理するかは出版社によって方針が異なっていたりするのですが、こういうやり方にしておくと、どこもママで受け入れてくれるので便利という面もあります。それだけ、だれにでも受け入れられる方法だってことの証左なんじゃないかと、私自身は思っていたりしますけど、どうなんでしょうね。
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