『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋 フリーランスが訳し、働き、食うための実務的アイデア』

珍しくも、著書が出ます(↓の書影をクリックするとアマゾンのページに飛びます)。

『スティーブ・ジョブズ』を翻訳するプロジェクトは、当時の記事(『スティーブジョブズⅠ・Ⅱ』の翻訳について-その1)に記してあるとおり、あり得ないほどきついスケジュールでした。

今回の本『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』では、そのあたりについて、そもそもどうして私が担当することになったのかの経緯からスタートし、本が出るまでをほぼ時系列で紹介してあります。もちろん、私から見た経緯であり、ほかの関係者が読んだら、少し違うなと思うところもあるかとは思いますが、当時のメモを掘り起こし、私としては、なるべく正確に再現したつもりです。このあたりは、講演会でなんどもしゃべり、毎回、かなり好評だった内容です(悪評は耳に届きにくいので、ほんとに好評だったのかと問われると返答に困りますが)。

実は、最後の後工程が7週間→3週間に半減されたときのどたばたなど、裏話を本にしたら喜んで読んでくれる人がそれなりにいそうだと、だいぶ前に書き留めたりしていました。ただ、内容が内容で、本にするなら、それこそ自費出版であっても、講談社で担当してくださった編集の方々に許可をもらう必要もあるだろうしとくすぶっていたのです。それが、ひょんな経緯で、講談社さんから出せるという話になってしまいました。いや、巡り合わせとはほんとに奇なものです。

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2024年6月19日 (水)

表記について

表記というのは、このブログでも一部を過去に取り上げていますが、いろいろとややこしいことがあります。同じものや固有名詞の表記をそろえるといった当然にすべきことはわかりやすいし、なにか問題に発展することもまずないのですが、物事というのはそんな簡単なものばかりではありません。

日本語の表記統一で最後まで問題になるのは漢字とかなでしょう。これは、漢字でないとまずいものから、漢字のほうがいいもの、どちらかといえば漢字のほうがいいもの、ほんとにどっちでもいいもの、どちらかといえばかなのほうがいいもの、かなのほうがいいもの、かなでないとまずいものまでグラデーションで連続的に変化します。

この中間あたりは、意味内容ではなく、前後がどうなっているかで漢字とかな、どちらにすべきかが決まったりするわけです。少なくとも私はそう思っています。でも実際の仕事では、「あっちとこっちで違う表記があるけどどっちに統一しますか」と統一以外の道がないかのようなことをよく言われます。

そもそも、表記の統一というのは、読者の理解を妨げないため、できれば、少しでも読者の理解を助けられるようにとするもののはずです。前後関係に応じて変えるべき表記を統一するというのは、手段が目的と化した行為、本来の目的を損なう行為と言わざるをえません。実際、「なぜどちらかにそろえる必要があるのですか」と尋ねても、たいがいは、「いや、表記は統一するものだから……」みたいなことしか返ってこなかったりします。「なぜ表記を統一するのか」という根本的なところまで行かず、途中で思考停止してしまっているわけです。

さきほどのグラデーションで、両端以外は、前後との兼ね合いでどちらがいいのかが決まるのであれば、いちいち、考えないと決められないことになります。言い換えれば、統一するほうが、なにも考えなくてすんで楽なわけです。作り手にとっては、ね。でも我々の仕事って、読者のためにするものなんじゃないんですか?

余談ながら、前後関係で漢字とかな、どちらにすべきかが決まるといった話は、『日本語の作文技術』(本多勝一)にも書かれています。

なお、このあたりは出版翻訳にかぎった話ではなく、産業翻訳でも成立します。

出版系に特有と言ってもいいのは、「だれの言葉か」によって、本来は漢字でないとまずいものをかな表記にするなどさえもある、というあたりでしょう。頭脳労働をしている博士と中卒で肉体労働系の仕事についている人と小学生の子どもが、みんな、そらでは書けないほど難しい漢字でしゃべるなんてありえないわけで、博士は漢字でも、小学生はかな書きでなければおかしいし、肉体労働系の人もかな書きという判断がありえます。

でも、そうやって使い分けていたら「不統一だったので統一しておきました」って勝手にやられてしまったり(経験者は語る)。こういう編集さんに当たると頭抱えます。戻すのはけっこうな手間です。統一した言葉がリストアップされて残っているなんてことはないので、セリフを一つひとつ見て、難しめの漢字があったら提出原稿と照合し、違っていたら赤を入れるという作業になりますからね。さらに、赤字が増えれば増えるほどその入力でミスが起きるおそれが増えるし。読者がかわいそうです(やらなくていい作業をえんえんやらされる自分もかわいそうですけどね)。

余談ながら、昔、「ニッチ」だったところがなぜか「二ッチ」と、「カタカナのニ」が「漢数字の二」に変わっているなんてことも経験しました。よくぞ気づいたと自分をほめてやりたいケースです。いじればいじるほどミス混入のおそれが増えるのは道理。いらんところをいじって戻すなんて愚の骨頂です。

というような愚痴をXに書いたら、方針のメモを渡せばいいとアドバイスをもらいました。言われてみればそのとおりで、どうしていままでしていなかったのか不思議でなりません。編集さんやその向こうにする校正さんはそのあたりのプロで、向こうに合わせるべきだと心のどこかで思っていた、少なくとも昔は思っていたからかもしれません。

ともかく。そういうわけで、最近、そのあたりのメモを用意し、仕事のパートナーである編集さんにお渡しするようにしました。表記以外のことも記してありますが、参考までに公開します。

記してあるのはあくまで私の方針であり、ここを読んだ方に、こうすべきだと言いたいわけではありません。私としては、いろいろと考え、それぞれに理由があって、ポイントごとに方針を決めているわけですが、根本的な考え方からしてひとつではないからです。

だから当然ですが、出版社さんや編集さんはそれぞれに異なる方針をお持ちのことが多く、実際の仕事で最終的にどうするかは、相談の上で決めることになります。

そうそう。「漢字は、基本的に常用漢字の範囲」という大原則は、ATOKに共同通信記者ハンドブック辞書を搭載すれば入力時にIMEが指摘してくれるようになります。以下のメモは、そのあたりが当然にできていることを前提としています。その先の話と言ってもいいでしょう。

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2024年6月12日 (水)

翻訳の才能とはなんなのだろうか(その2)

前投稿「翻訳の才能とはなんなのだろうか」の続きです。

いまさらながら辞書を引いてみました。

(三省堂国語辞典)ものごとをりっぱにやりぬくための、頭のはたらきや能力。
(新明解)物事を理解して処理する、頭の働きと能力。
(大辞林)物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力。

才能というのは現在の能力というより生まれもった才を指すものだと思っていたのですが、このあたりの語釈は「いま現在の能力」と言いたげなものとなっています(「素質」の一言がある分、大辞林は少し違う)。

「いま現在の能力」なのであれば、それこそ、上手下手と才能の有無が基本的に対応することになります。上手下手、能力、才能が入れ替え可能な同義語に近いと言ってもいいでしょう。

そうなんでしょうか。

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2024年6月 9日 (日)

毎日新聞の校正校閲コンテンツ

「学べるゲラ」という記事が、一部、無料公開されていました月額1500円の有料会員になると、ほかの回も読めるとのこと。また、別途2000円で校閲力講座(入門編)なる動画20本のセットもあるようです。

これから忙しくなるから少し後にはなるけど、ひととおり勉強してみたいと思いました。

校正・校閲でチェックされるようなことは、翻訳以前の基本的なことであり、我々もひととおりのことは学び、身につけておくべきだと思います。そんなわけで、中身をまだ見ていない状態で「お勧め」のところに書くのはどうかと思いつつ、自分の心覚えとして書いておくことにしました。

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2024年3月29日 (金)

翻訳の才能とはなんなのだろうか

翻訳について、「才能」という言葉が使われることがわりとよくあります。でも、翻訳の才能とはなんなのでしょうか。なにをもって才能と言うのでしょうか。

このあたり、考えがまとまっているわけではなく、結論めいたものは提出できないのですが、ほかの方々がこのあたりについて考えるきっかけになればと思い、この記事を書くことにしました。

翻訳の才能は、才能ある人の翻訳は上手だという感じで使われることが多いように思います。逆に、翻訳が上手な人は才能があると言われがちな気がします。

じゃあ、上手下手は才能で決まるのでしょうか。才能ある人は最初からうまいのでしょうか。いま、下手な人は才能がなく、今後、なにをしてもうまくなれないのでしょうか。

そんなことはないはずです。努力しなければ才能があっても開花しません。だから、最初はみんな下手くそです(少なくとも、その後努力して伸びた後に比べれば相対的に下手)。

『翻訳とは何か 職業としての翻訳』に、山岡洋一さんは、翻訳に取り組んでいると「小さな技術の組み合わせによって訳文の九十パーセント以上が書けてしまうと思えるほどである」と書かれています。「翻訳にあたって自分に何かが不足していることを思い知らされたとき、その何かを『能力』だと考えていては、親を恨むか、DNA療法の飛躍的な進歩に期待をかけるしかなくなる」「不足しているのは、たいがいの場合、もっと具体的な何かである」、必要なのは「技術」であるとも。

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2023年8月10日 (木)

書かれていること・書かれていないこと vs. 明示的に書かれていること・暗示的に書かれていること

何年も前に書いて投稿したつもりだったのだけれど、見当たらない。どうも、投稿してないのに投稿ずみフォルダーに移してしまっていたらしい。というわけで、遅ればせながら投稿しておきます。

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先日、ツイッターで、とある方と、「何も足さない・何も引かない」について意見を交わす機会がありました。その後、こういう説明にしたら、もしかしたらわかってもらいやすいのかもと思ったことがあるので書いておきます。

「何も足さない・何も引かない」とは、字面の問題ではなく、あくまで内容の問題、翻訳フォーラムで「絵」と言っているレベルの問題であることは、このブログでも何度か取り上げています。

「誤解されやすい翻訳業界の常識-直訳 vs. 意訳」

ここで問題になるのが、何をもって「何も足さない、何も引かない」というか、です。単語の並びなど、形の上で「何も足さない、何も引かない」ようにすれば、それは字面訳にしかなりません。翻訳では内容レベルにおいて「何も足さない、何も引かない」ようにしなければならないのです。

以下の式を実現するのが翻訳だ、と言ってもいいでしょう。

原文を読んだ読者が受けとる情報(=著者が伝えたいと思った情報)
= 訳文を読んだ読者が受けとる情報

「翻訳フォーラム・シンポジウム2019~足さない・引かない~」

原文と同じ絵を届けられる訳文にするため言葉を足したり引いたりするのは「足さない・引かない翻訳」である、逆に、字面で「足さない・引かない」を実現したがゆえに「足しちゃった・引いちゃった翻訳」になるケースもありうる、足し引きの判断はあくまで絵を基準にすべきだ……


足したり引いたりしているように見えるけど絵で評価すれば足しても引いてもいない訳、足したり引いたりしているように見えて絵も足したり引いたりしている訳、足したり引いたりしているように見えないかもしれないけど絵で評価すれば足したり引いたりしてしまっている訳と、いろいろな訳がありえますし、実際に存在します。目の前にある原文と訳文がどういう関係なのかは、著者や原文の読者、訳文の読者といった人間の思考や感情や意図といったものを考えないと判断できません。

取り上げているのですが……腹落ちは意外にしにくいことだったりします。まあ、だからこそ、2019年の翻訳フォーラム・シンポジウムで丸一日をかけて議論したりしたわけです。

というわけで、本題です。

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2023年6月 1日 (木)

SimplyTermsアップデート

自作して公開している翻訳支援環境、SimplyTermsのver.1.00.0を公開しました。

Buckeye's Software Library

今回は動作期限延長のみです。といっても期限を3000年にしてあるので、実質、動作期限なしです。今後はバグフィックスなどのときにのみ更新します。まあ、ここ何年か、バグフィックスなしで来てるんですが……。

◎機能強化

なし

◎バグ修正

なし

◎アップデート方法

stフォルダごと上書きコピーが一番簡単です。各種設定は旧版のものが引き継がれます。

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2023年5月15日 (月)

『続・情報のなわ張り理論』

(2020年12月に投稿したはずのフォルダーに入っているのに、投稿がないようなので、遅ればせながら投稿します。大昔のことを「先日」とか書いているのは、当時書いたものそのままだからです)

~の専門家、だれそれは「……」と言っています。

みたいな文章、翻訳ものだとよくあるじゃないですか。ノンフィクションの書籍とか、あと、産業系でもウェブ関連とかで頻出。あれ、私、ダメなんです。「で?」と思っちゃう。英語で読んでいるとなんとも思わず、するりと入ってくるんですが、日本語だとだめ。語っている専門家と、その言葉を紹介している筆者と、読者である自分の距離感のようなものがつかめないって言えばいいのかなぁ。

たぶん、英語なら主語がすべてをコントロールするので、ああそうなのねとすんなり入ってくるのに対し、日本語は、どうしても語り手が言葉の端々ににじむので、うん、専門家の意見はわかった、で、あんたはどういう意見なのよって筆者に対して思ってしまうんじゃないかと。前投稿『知覚と行為の認知言語学:「私」は自分の外にある』で紹介した、英語は「傍観者的ないし超越的な観点からの見方が優勢」というあたりが効いてると言ってもいいのかもしれません。なんか、ヒトゴト感が漂う気がしてしかたないんですよね。

だというのに、私は、いま、よりによってノンフィクションの書籍に軸足を置いているわけで、この手の原文が数え切れないくらい出てきます。しかたがないので、この何年か、試行錯誤を重ねています。毎回、悩みに悩んで。その結果、前述のような紋切り型に比べればそれなりに収まりがつくように訳せているつもりではあるけれど、まだ、本当のところ、どうすればいいのか、どういう考え方で訳せばいいのか、よくわかっていません。

ですが、こういう話、翻訳者のあいだで出た記憶がないんですよね。いや、まあ、ずっと悩んでいる私自身、出してなかったりするんで、みんな、悩んでいるけど表に出してないだけかも知れませんけど。

ともかく、そんな状態なので、こんなこと感じるのは私くらいなのかなぁと思わないでもありませんでした。その懸念を払拭してくれたのが本書、『続・情報のなわ張り理論』です。(前置きなげーよ>自分)

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2023年4月24日 (月)

「の」が連続したときの書き換え例

10年以上も前、2010年に書いて投稿したつもりで、なぜか投稿されていなかったらしいものを見つけたので、遅ればせながら。関連投稿として、「『の』の連続は避ける」、「連続を避ける」、『「編集手帳」の文章術』あたりもどうぞ。

■「の」の連続

「の」の連続でよくあるパターンが、「A、B、Cなどの××」と「などの」に絡むものでしょう。実例列挙はよくある形ですからね。

まず、Cが「××の××」となっているとき。そういうときの処理としては(↓)あたりが定番でしょうか。

●「など、」と「の」をなくす(この書き換えは不可能なケースあり)
「といった」「をはじめとする」などと書き換える

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2023年1月 9日 (月)

主語と述語の呼応~そしてテトリス

英日翻訳の校閲などを仕事にされている久松さんのツイートから。彼女は、我々翻訳者にとって参考になることをよく書いてくれています。翻訳関係者にはフォローをお勧めします。

 

上記、基本的にそのとおりです。ただ、1点、私としては違う言い方をするなぁというところがあったので、そこについて書いておきたいと思います。

>> ①主語と述語が呼応している

これは「主語がなるべく揺れない」(=「主語の変化をなるべく減らす」)にすべきだと私は思っています。日本語の場合、主語は述語に従うため表に出ていないケースがよくあります。そのとき「主語と述語は呼応している」ことになります(正確に言えば、述語に呼応するものが暗黙の主語)。

ではあるのですが、「主語と述語がずれている」と一般に言われるのは、実際のところ、暗黙の主語が揺れているケースを指すことが多いと思います。ほかの述語と呼応している主語と無理やり組み合わせて考えてしまうからでしょう。

そのとき、暗黙の主語を「が」格で明示しても、「主語と述語の呼応」は実現できます。でも、それが主語と述語がずれていたときより読みやすく、誤解なく伝わるのかと言えばノーです。多少はマシかもしれませんが、せいぜい、その程度です。

根本的には、「そういう主語が揺れないように、揺れが少なくなるように述語を調整する」作業が必要になります。これをすると、「が」格で明示しなければならない主語もがさっと消えたりします。私が「テトリス」と呼んでいるやつです。

ちなみに、テトリスで消す対象は主語以外のことも少なくありません。「は」などで提示するテーマというか視点というかをうまく設定し、それが揺れないように書いていけば、主語にかぎらずいろいろなものがごそっと消えたりするわけです。

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