言葉-日本語

2024年6月19日 (水)

表記について

表記というのは、このブログでも一部を過去に取り上げていますが、いろいろとややこしいことがあります。同じものや固有名詞の表記をそろえるといった当然にすべきことはわかりやすいし、なにか問題に発展することもまずないのですが、物事というのはそんな簡単なものばかりではありません。

日本語の表記統一で最後まで問題になるのは漢字とかなでしょう。これは、漢字でないとまずいものから、漢字のほうがいいもの、どちらかといえば漢字のほうがいいもの、ほんとにどっちでもいいもの、どちらかといえばかなのほうがいいもの、かなのほうがいいもの、かなでないとまずいものまでグラデーションで連続的に変化します。

この中間あたりは、意味内容ではなく、前後がどうなっているかで漢字とかな、どちらにすべきかが決まったりするわけです。少なくとも私はそう思っています。でも実際の仕事では、「あっちとこっちで違う表記があるけどどっちに統一しますか」と統一以外の道がないかのようなことをよく言われます。

そもそも、表記の統一というのは、読者の理解を妨げないため、できれば、少しでも読者の理解を助けられるようにとするもののはずです。前後関係に応じて変えるべき表記を統一するというのは、手段が目的と化した行為、本来の目的を損なう行為と言わざるをえません。実際、「なぜどちらかにそろえる必要があるのですか」と尋ねても、たいがいは、「いや、表記は統一するものだから……」みたいなことしか返ってこなかったりします。「なぜ表記を統一するのか」という根本的なところまで行かず、途中で思考停止してしまっているわけです。

さきほどのグラデーションで、両端以外は、前後との兼ね合いでどちらがいいのかが決まるのであれば、いちいち、考えないと決められないことになります。言い換えれば、統一するほうが、なにも考えなくてすんで楽なわけです。作り手にとっては、ね。でも我々の仕事って、読者のためにするものなんじゃないんですか?

余談ながら、前後関係で漢字とかな、どちらにすべきかが決まるといった話は、『日本語の作文技術』(本多勝一)にも書かれています。

なお、このあたりは出版翻訳にかぎった話ではなく、産業翻訳でも成立します。

出版系に特有と言ってもいいのは、「だれの言葉か」によって、本来は漢字でないとまずいものをかな表記にするなどさえもある、というあたりでしょう。頭脳労働をしている博士と中卒で肉体労働系の仕事についている人と小学生の子どもが、みんな、そらでは書けないほど難しい漢字でしゃべるなんてありえないわけで、博士は漢字でも、小学生はかな書きでなければおかしいし、肉体労働系の人もかな書きという判断がありえます。

でも、そうやって使い分けていたら「不統一だったので統一しておきました」って勝手にやられてしまったり(経験者は語る)。こういう編集さんに当たると頭抱えます。戻すのはけっこうな手間です。統一した言葉がリストアップされて残っているなんてことはないので、セリフを一つひとつ見て、難しめの漢字があったら提出原稿と照合し、違っていたら赤を入れるという作業になりますからね。さらに、赤字が増えれば増えるほどその入力でミスが起きるおそれが増えるし。読者がかわいそうです(やらなくていい作業をえんえんやらされる自分もかわいそうですけどね)。

余談ながら、昔、「ニッチ」だったところがなぜか「二ッチ」と、「カタカナのニ」が「漢数字の二」に変わっているなんてことも経験しました。よくぞ気づいたと自分をほめてやりたいケースです。いじればいじるほどミス混入のおそれが増えるのは道理。いらんところをいじって戻すなんて愚の骨頂です。

というような愚痴をXに書いたら、方針のメモを渡せばいいとアドバイスをもらいました。言われてみればそのとおりで、どうしていままでしていなかったのか不思議でなりません。編集さんやその向こうにする校正さんはそのあたりのプロで、向こうに合わせるべきだと心のどこかで思っていた、少なくとも昔は思っていたからかもしれません。

ともかく。そういうわけで、最近、そのあたりのメモを用意し、仕事のパートナーである編集さんにお渡しするようにしました。表記以外のことも記してありますが、参考までに公開します。

記してあるのはあくまで私の方針であり、ここを読んだ方に、こうすべきだと言いたいわけではありません。私としては、いろいろと考え、それぞれに理由があって、ポイントごとに方針を決めているわけですが、根本的な考え方からしてひとつではないからです。

だから当然ですが、出版社さんや編集さんはそれぞれに異なる方針をお持ちのことが多く、実際の仕事で最終的にどうするかは、相談の上で決めることになります。

そうそう。「漢字は、基本的に常用漢字の範囲」という大原則は、ATOKに共同通信記者ハンドブック辞書を搭載すれば入力時にIMEが指摘してくれるようになります。以下のメモは、そのあたりが当然にできていることを前提としています。その先の話と言ってもいいでしょう。

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2023年4月24日 (月)

「の」が連続したときの書き換え例

10年以上も前、2010年に書いて投稿したつもりで、なぜか投稿されていなかったらしいものを見つけたので、遅ればせながら。関連投稿として、「『の』の連続は避ける」、「連続を避ける」、『「編集手帳」の文章術』あたりもどうぞ。

■「の」の連続

「の」の連続でよくあるパターンが、「A、B、Cなどの××」と「などの」に絡むものでしょう。実例列挙はよくある形ですからね。

まず、Cが「××の××」となっているとき。そういうときの処理としては(↓)あたりが定番でしょうか。

●「など、」と「の」をなくす(この書き換えは不可能なケースあり)
「といった」「をはじめとする」などと書き換える

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2020年4月11日 (土)

『段落論 日本語の「わかりやすさ」の決め手』 (光文社新書)

1カ月ほど前に出た石黒圭さんの本。段落については、書き手としても読み手としても、ここ何年かを中心に10年ほど、いろいろと思うことがあるというか、はっきり言って迷いに迷っている状態だったので、なにかヒントはないかと読んでみることにしました。

石黒圭さんの本は、基礎から学術的な話まで幅広く、素人にもわかりやすく書かれていることが多いので、基本的事項の確認にも、一般にどうこう言われていない事柄に関してヒントをつかむためにも役に立つことが多いと思います。

感想は……読んでよかった、でした。大昔に学校で習ったような話も多く、新情報が山のように、という本ではありませんが、何年もずっともやもやしてきた件について、どうやら、自分が抱いてきた疑問は的外れというようなものではないらしい、と思わせてくれる話があったからです。

本の話に入る前に、私がもやもやしてきたことを書いておきましょう。

■英語と日本語の翻訳において、段落って維持すべきなんでしょうか。

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2020年3月19日 (木)

カギ括弧と句点、?などの関係について

文の最後には句点を打つ。それが基本ですが、現実にはいろいろと難しいケースが出てきます。

■文が終わっていることを示す機能

これが一番の機能なわけですが、この機能を果たすのは、句点だけじゃありません。「?」「!」「!?」なども使われたりします。句点以外のものを使う場合やカギ括弧がある場合は悩ましいケースだと言えます。

■「?」などを使う場合

この場合、後ろ全角一マス空けが基本になります。

え? そう思った方も少なくないのではないでしょうか。ツイッターやブログで全角アケにしている人はめったにいませんから。でも、さきほどのところ、「え?そう思った方も少なくないのではないでしょうか」ってしたらなんか変だと感じませんか?

我々翻訳者は物書きの端くれだと思うんですが、そういう仕事をしていて、なお、「?」などの後ろを全角一マス空けにしない人、少なくありません。正直なところ、日本語の本を読んでいるとき、なにを見ているのだろうと思ってしまいます。まあ、えらそーなことを言ってる私も、翻訳専業になって何年かはまるで気にしていなかったように思いますけど(^^;)

勝手な想像なのですが、句読点は、ある意味、空白に近いから句読点として機能するのではないかと私は思っています。「、」も「。」も、ぱっと見、そこが空間に見えますよね? だから、文がそこで切れていると感じられる、と。先日の段落頭カギ括弧じゃありませんが、見た目から受ける印象って大事だと思うんですよ。

対して「?」「!」「!?」などは、マス目が埋まっている感じになります。つまり、それだけでは、切れ感が足りない。かといって、「?。」とかするのはどう考えても変です。なので、「? 」と後ろ全角一マス空けにするのが自然ということになったのではないでしょうか。

逆に言えば、そこで文章が終わらなければ、「?」「!」「!?」などの後ろを全角一マス空けにする必要はない。いや、空けちゃいけない、と言うべきですね。

どういうことかというと……

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2020年3月16日 (月)

段落頭のカギ括弧

日本語の場合、段落頭は一字下げるのが基本です。これは、どこからどこまでが段落であるのかをわかりやすくするためでしょう。

ブログやSNSのように、段落間を1行空けることで表現するケースもあります。

段落頭一字下げが基本のケースで、例外的に下げない場合があります。よくあるのは(↓)でしょうか。

  • 箇条書きなど、段落頭になにかがくっついている場合
  • 段落頭が括弧の場合

(小見出しなどの直後だけ下げないという形式もありますが、それは今回の話とずれるので横に置いておきます)

箇条書きなど、段落頭になにかがくっついていれば、字下げしないのは当然ですね。逆に、段落頭が括弧の場合は、括弧が空白に近いため、一字下げ相当という扱いになっているのだと思います。

先日、とある雑誌を読んでいて気になったのが、この処理。

書籍などのカギ括弧は1文字分しっかり取る大きさのことが多いのですが、その雑誌のDTPでは、カギ括弧が半角分くらいに細いのです。カギ括弧が文章中に出てきた場合はそのほうがきれいに見える気もしますし、雑誌のように1行の文字数が少ないとカギ括弧が1文字分取っていると間延びして見えそうな気もします。ですから、それはいいのですが……

問題は、カギ括弧が段落頭に来た場合。カギ括弧が半角分の幅ということは、その次の文字が半角分、前にずれてしまうわけで。その状態からカギ括弧をなくすと、一字下げではなく半字下げにしかなりません。しかも、その半字が完全な空白ではなく、カギ括弧があるわけで。これじゃ、段落頭に見えません。こういう処理なら、段落頭のカギ括弧はその前後なりを少し空けるなどして調整しないとだめなんじゃないでしょうか。実際、話の展開がなんかおかしいなぁと思ったら、途中で段落が変わっていたとかありました。前段落最後の行がちょうど幅いっぱいまでだと、段落が変わったことに気づかなかったりするんです。段落って、文章の理解を助ける大きな装置なわけで、それがきちんと働かないのは困ります。

Kindleとかでもそうなってることがあって、そっちは画一的な処理にせざるをえなくてしかたないんだろうなとは思うんですが、印刷物は、ちゃんと組版してほしいですね~。

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2019年1月28日 (月)

日本語の文末表現

だいぶ前の本で、編集さんからの提案とか相談とかをチェックするゲラ前の処理をしたときのことです。

余談ながら、提出した訳稿からゲラまでの処理は、編集さんによっていろいろなパターンがあります。この編集さんのように、大きな疑問をつぶしてからゲラにする人もいます。出した原稿がそのままゲラになって返ってくることもあります。ついでに言えば、出した原稿があっちもこっちも訳者としては不本意な形に変えられて返ってくるケースもあります。

本が厚くなりすぎそうなんで、少しでも行数を減らしたいとのことで、このときはあちこち削る提案が一杯入っていて、そのせいで思いのほか時間がかかったりしたんですが、それはまあ、いいんです。なにかしようとすれば時間がかかるのは当然ですから。

ただ、削られたり簡略化されたりするのは、文末が多いんですよね。

でも、日本語の文末って、トーンとかニュアンスとか、ほかの文との関係とか、時間的なこととか、いろんな意味(テンス、アスペクト、ムードなどと言われるもの)を担う大事な部分です。だから、私は、ほかをなるべく切り詰めた上で、文末だけは文字数気にせず必要なものは盛りこむというのを基本にしています。

このときもあちこち文末を削る提案がいっぱいあったのですが、意図があってのことなので、ちょっとどうかと思っても、それなりに了承しました。したんですが、あとになって、これはまずかったかもと思いいたりました。

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2018年8月11日 (土)

部分否定

最近気になっていることがあります。部分否定です。これがおかしくなっている日本語をよく見るのです。

日本語の場合、「すべてが~できない」は全否定であり、部分否定なら「すべてが~できるわけではない」「必ずしも~できるわけではない」「~できないものがある」「一部は~できない」「~できるとはかぎらない」などとなります。なのに、部分否定であるはずの文脈で「すべてが~できない」のような書き方をしているわけです。

「すべてが~できない」を部分否定のつもりで使うのは、英語の“not all”が部分否定だからなのではないか、つまり、“not all”を下手な翻訳で「すべての~が~できない」としてしまい、それが広まりつつあるのではないかと危惧しています。まあ、推測でしかなくて真偽のほどはわかりませんけど。

ともかく、プロ翻訳者でもよくやらかしているというのがなんともはやです。翻訳するときじゃなく、日本語で文章を書いていてやらかすということは、部分否定のイメージが頭にあるのに部分否定の日本語が出てこないってことでしょう。それって、部分否定の日本語が使えなくなっているのか、あるいは、全否定を部分否定だと思うようになってしまっているのか。

そういうのを見ると、もしかして、いつも、“not all”を部分否定とわかったうえで「すべてが~できない」的な訳し方をしているんじゃないかと思ったりします。つまり、いつもそう訳しているうちに染まってしまい、日本語のほうがおかしくなったのかなぁ、と。で、そういう人は、きっと、これ以外にもいろいろと英語表現に引っぱられた日本語に染まっちゃってるんじゃないかなぁ、と。(allなど英語の数量表現はほぼ必ず名詞の前にあるけど、日本語は多様。なのに、翻訳では数量表現を名詞の前に置いた日本語ばかりっていうのも気になる点だったりしますけど、それはとりあえず横に置いておきます)

このあたり、翻訳者なら職業病というくらい気にならないといかんと思うんですけど。どうなんでしょう。

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2012年3月 6日 (火)

主語を出さなければならないとき

川月現大さん(編集者)のブログに「どんなときに主語を省略できるのか 【文章技術:ピリオド越え】」というエントリーがありました。

「英語は主語が省略できない(主語と動詞がないと文にならない)が、日本語は主語を省略できる」とよく言われますが、私はむしろ、「日本語は必要なものしか出さない」と表現すべきだと考えています。理由は、「省略できる=省略しなくてもいい」と感じるのが普通であり、「省略できる」と考えていると省略したほうがいいものまで残ってしまう可能性が高いからです。

このあたりについては(↓)のエントリーも参照してください。

いらない主語が残っていると読みにくい日本語になります。これは、優秀なひとならほんの少し翻訳をかじっただけでわかってしまうほど明白な問題です。「翻訳者でない人が気づいた翻訳のコツ」で紹介したように、その方は「主語を省略する。意味上の主語が明白な場合には、なるべく省略する」という言い方をされています。「省略しなくてもいい」ではないのです。「なるべく」省略しなければならないわけです。

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2010年10月 2日 (土)

翻訳者と日本語入力IME

ATOK 2010+共同通信社記者ハンドブック辞書」でも書きましたが、私は、ジャストシステムのATOKに共同通信社記者ハンドブック辞書を組み合わせて使っています。これ、翻訳など書き物をする人にとっては不可欠なツールだと思うのですが、使っている人は意外に少ないようです。

■ベースとなる日本語入力IME

いろいろな人の話を聞くと、日本語入力IMEとしてOS付属のIMEを使っている人が多いようです。それなりではあると思うのですが、変換の精度はATOKが一段上だというのが、少なくともATOKを使っている人たちの意見です。

昔、翻訳フォーラムで変換精度の比較をしてみた人たちがいました。そのときははっきりとATOKに軍配があがりました。ただ、その後、OS付属のIMEも進化しているので、今、どのくらい違うのかはわかりません。

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2010年9月 9日 (木)

連続を避ける

『の』の連続は避ける」への補足です。

■「の」の連続を避けた例

今日、翻訳フォーラムへの投稿を書いていたら、

「SimplyTermsのヘルプの正規表現の入門に記載してあります」

となってしまいました。これなんか、「の」の一番基本的な意味、"of"になる「の」が連続しているだけなので意味が不明確になることはないのですが、やはり、気になるので(職業病?)、(↓)のようにしておきました。

「正規表現の入門としてSimplyTermsのヘルプに記載してあります」

ほかには、(↓)あたりのパターンが考えられるでしょうか。

  • SimplyTermsのヘルプにある正規表現の入門に記載してあります(「に」が連続して出てくる)
  • SimplyTermsのヘルプにある正規表現の入門という項目に記載してあります(「という」で軽くまとまるので「に」の連続は気にならないけど、全体が長い)

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