表記について
表記というのは、このブログでも一部を過去に取り上げていますが、いろいろとややこしいことがあります。同じものや固有名詞の表記をそろえるといった当然にすべきことはわかりやすいし、なにか問題に発展することもまずないのですが、物事というのはそんな簡単なものばかりではありません。
日本語の表記統一で最後まで問題になるのは漢字とかなでしょう。これは、漢字でないとまずいものから、漢字のほうがいいもの、どちらかといえば漢字のほうがいいもの、ほんとにどっちでもいいもの、どちらかといえばかなのほうがいいもの、かなのほうがいいもの、かなでないとまずいものまでグラデーションで連続的に変化します。
この中間あたりは、意味内容ではなく、前後がどうなっているかで漢字とかな、どちらにすべきかが決まったりするわけです。少なくとも私はそう思っています。でも実際の仕事では、「あっちとこっちで違う表記があるけどどっちに統一しますか」と統一以外の道がないかのようなことをよく言われます。
そもそも、表記の統一というのは、読者の理解を妨げないため、できれば、少しでも読者の理解を助けられるようにとするもののはずです。前後関係に応じて変えるべき表記を統一するというのは、手段が目的と化した行為、本来の目的を損なう行為と言わざるをえません。実際、「なぜどちらかにそろえる必要があるのですか」と尋ねても、たいがいは、「いや、表記は統一するものだから……」みたいなことしか返ってこなかったりします。「なぜ表記を統一するのか」という根本的なところまで行かず、途中で思考停止してしまっているわけです。
さきほどのグラデーションで、両端以外は、前後との兼ね合いでどちらがいいのかが決まるのであれば、いちいち、考えないと決められないことになります。言い換えれば、統一するほうが、なにも考えなくてすんで楽なわけです。作り手にとっては、ね。でも我々の仕事って、読者のためにするものなんじゃないんですか?
余談ながら、前後関係で漢字とかな、どちらにすべきかが決まるといった話は、『日本語の作文技術』(本多勝一)にも書かれています。
なお、このあたりは出版翻訳にかぎった話ではなく、産業翻訳でも成立します。
出版系に特有と言ってもいいのは、「だれの言葉か」によって、本来は漢字でないとまずいものをかな表記にするなどさえもある、というあたりでしょう。頭脳労働をしている博士と中卒で肉体労働系の仕事についている人と小学生の子どもが、みんな、そらでは書けないほど難しい漢字でしゃべるなんてありえないわけで、博士は漢字でも、小学生はかな書きでなければおかしいし、肉体労働系の人もかな書きという判断がありえます。
でも、そうやって使い分けていたら「不統一だったので統一しておきました」って勝手にやられてしまったり(経験者は語る)。こういう編集さんに当たると頭抱えます。戻すのはけっこうな手間です。統一した言葉がリストアップされて残っているなんてことはないので、セリフを一つひとつ見て、難しめの漢字があったら提出原稿と照合し、違っていたら赤を入れるという作業になりますからね。さらに、赤字が増えれば増えるほどその入力でミスが起きるおそれが増えるし。読者がかわいそうです(やらなくていい作業をえんえんやらされる自分もかわいそうですけどね)。
余談ながら、昔、「ニッチ」だったところがなぜか「二ッチ」と、「カタカナのニ」が「漢数字の二」に変わっているなんてことも経験しました。よくぞ気づいたと自分をほめてやりたいケースです。いじればいじるほどミス混入のおそれが増えるのは道理。いらんところをいじって戻すなんて愚の骨頂です。
というような愚痴をXに書いたら、方針のメモを渡せばいいとアドバイスをもらいました。言われてみればそのとおりで、どうしていままでしていなかったのか不思議でなりません。編集さんやその向こうにする校正さんはそのあたりのプロで、向こうに合わせるべきだと心のどこかで思っていた、少なくとも昔は思っていたからかもしれません。
ともかく。そういうわけで、最近、そのあたりのメモを用意し、仕事のパートナーである編集さんにお渡しするようにしました。表記以外のことも記してありますが、参考までに公開します。
記してあるのはあくまで私の方針であり、ここを読んだ方に、こうすべきだと言いたいわけではありません。私としては、いろいろと考え、それぞれに理由があって、ポイントごとに方針を決めているわけですが、根本的な考え方からしてひとつではないからです。
だから当然ですが、出版社さんや編集さんはそれぞれに異なる方針をお持ちのことが多く、実際の仕事で最終的にどうするかは、相談の上で決めることになります。
そうそう。「漢字は、基本的に常用漢字の範囲」という大原則は、ATOKに共同通信記者ハンドブック辞書を搭載すれば入力時にIMEが指摘してくれるようになります。以下のメモは、そのあたりが当然にできていることを前提としています。その先の話と言ってもいいでしょう。
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■ゲラ作業の進め方
関係者全員にとって時間とエネルギーのムダでしかない手戻りや、手戻りに伴うミスを防止するため、以下のパターンでお願いします。
●文章の改変については、いわゆる「えんぴつ」、すなわち提案でお願いします。ほかとの関係がおかしい、どうしてこんな日本語を書いてしまったのかと提出訳稿を確認すると、勝手に書き換わっていて、元に戻す赤を入れることがよくあります。また、私の勘違いなどで訳文がいまいちよくなかったところを日本語のつじつまだけが合うように改変されていて、一見するとよさそうなのに原文とまるで違う内容になっていることもあります(改変に気づけず出版されたものもあることでしょう)。いずれも、えんぴつで提案なり、「わかりにくい」「誤読した」「つながりが悪い気がする」などと指摘なりしていただければ、最小限のエネルギーで修正することができます。
●表記統一などは、ゲラ前にご相談ください。使い分けていたものが変に統一され、戻すのに膨大な手間がかかる上、戻し忘れや戻す際の入力ミスなどが発生するというのもよくあります。
●えんぴつを入れる際、なるべく、「なぜそう思うのか」「どう使い分けるべきだと考えているのか」などを書いてください。これが書いてあれば、その方針に同意できるか否かで採否をすぐに判断できますが、それがないと、なぜなのかの推察に時間を費やすことになりますし(1箇所に2~3日かかったケースもあります)、そこまでしても推察がまちがっていることもありえます。
私の訳文作成は、時間とエネルギーをかけてさまざまな面を検討し、両立しえないあれこれを少しでも収まりがよくなるようにと組み上げていくやり方です。パズルを組み上げるようなイメージと言えばいいでしょうか。そのため、どこかを変えれば、それに伴ってほかもあちこち変えなければならなくなることがよくあります。
ゲラは、訳出時に検討する部分が基本的にできていることを前提に、流れをチェックし、微調整の仕上げをするものだと考えています。また、そういう読み方をするからこそ気づけるまちがいというものもあります。
ところが、知らない間に訳文が変化していると、再度、訳出時と同じ検討をしなければならなくなります。その場合、本気でやればゲラチェックに3カ月前後かかることになりかねません(訳し直すに等しい手間となる)。もちろんそこまでの時間は取れないわけで、どうなるかと言えば、1週間で終えられるはずのゲラ読みに3週間も4週間も要したあげく、品質的には2段階ほど落ちた仕上がりにしかならない、です(訳出時に排除したパターンが混入していることを見過ごして1段階、狂いの検出を重視せざるをえず、流れのチェックによる仕上げがおろそかになる分でもう1段階。後者は、訳文の甘いところやまちがっているところにゲラ読みで気づけないという大きな問題も生まれます)。
提案自体はどしどしお願いします。翻訳者だけでは独りよがりになりかねませんし、いくら気をつけたりミス防止の工夫をしたりしてもミスはなくなりませんし。編集さんやその向こうにいる校正・校閲の方々などと協力していい本に仕上げたいというのが私の希望ですから。
そういう意味でも、相談なしに訳文そのものを改変するのは避けていただきたいと思います。大事なのは「どう改変するか」ではなく「なぜ改変するか」なのに、その「なぜ」がわからないからです。「なぜ」を指摘していただければ、具体的にどうするかは私のほうで考えます。
■表記について
不要な提案を省き、校正者・編集者・翻訳者と関係者全員の負担が少なくなるように、私が原則としている表記のパターンをざっとメモしておきます(あくまで原則であり、必要に応じて例外的な処理もありうることにご留意ください)。
なお、「漢字・かなの使い分け」に書いていますが、表記は統一すべきものとしなくていいものがあると考えています。積極的なメリットのないところまで統一するのは統一のための統一であり、時間と労力を費やしたあげく入力ミスが混入するなど質が下がることさえありうるので、避けたいと思います。
●数字
算用数字を使うパターンを原則としています。一桁全角、二桁半角、三桁以上は全角。
ただし、漢字が原則である言葉のほか、以下のようなケースは漢数字かひらがなを使います。
「ひと」「ふた」など、訓読みは漢数字かひらがな
ひとつ、ふたつ、みっつ/三つ、四つ、……九つ、十、11、12……
ひとり、ふたり、3人、4人……
一日(ついたち)、1日(いちにち)
一月(ひとつき)、1月(いちがつ)
度量衡はメートル法に換算、貨幣は原文ママ。
●カタカナ表記
外来語や、固有名詞など外国語のカタカナ表記については、以下を原則としています。
1. 日本で対応する固有名詞が正式にあるものはそれに従う。当該企業の日本法人が使っている、著書の翻訳が出ていてその著者名に使われている(検索で引っかからないとまずいので)など。
2. 慣用として定まっていると判断したものはそれを優先する(ラジオ、ブレーキ、ベートーベンなど)。最近のものについては、新聞、雑誌など、紙媒体もある大手が使っているパターンを優先する。
3. 「ヴ」は、上記以外のケースでは基本的に使わない(カタカナは日本語ですし、v音だけ日本語で使わない音を表記しても意味がないと思うので)。同様に、中黒は、以下のケースではなるべく少なくする。語末の音引きはアリを基本とする。
4. 語としての慣用がないものについては、原音に基づいて表記を考える。原音は、(人名なら)本人が発音している、大手ネットワークのキャスターが紹介している、大きなイベントで司会者が紹介している、よくわからないイベントで司会者が紹介しているの順に優先する。
●「」と文末の処理
以下を基本としています。
・「」だけの段落とする。
・~に「……」とたずねてみた。
「……。」や「……」。というパターンは使わない。閉じカッコの次に新しい文がそのまま続く形も使わない。
●漢字・かなの使い分け
前述のように、表記は統一すべきものとしなくていいもの、いや、しないほうがいいものさえあると考えています。以下、たとえば「かな寄り」というのは、かなを原則とするが、前後関係などから漢字にすることもある、の意です。
全体としてひらがな寄りにしています。本を読み慣れていない人にも読みやすくするためです。
・大原則
名詞、接続詞は、漢字にせよかなにせよ、表記を統一します(せりふなど、例外もありえます)。それ以外は、前後が漢字ばかりならかな、かなばかりなら漢字と揺らすケースがあります(本多勝一著『日本語の作文技術』第5章「漢字とカナの心理」)。
漢語は漢字、和語は漢字あるいはかな
名詞は漢字寄り
形容詞、接続詞などはかな寄り
動詞も日常生活でよく使うものはかな寄り
複合動詞は、後ろを開き気味。
漢字は、基本的に常用漢字の範囲とし、常用漢字表外の漢字は基本的にルビを振ります。
文脈なしで見せられたら読めない人がそれなりにいそうな漢字は、開く、ルビを振るなどします。
ルビは、基本的に毎回振りたいと考えています(前のルビを覚えておけというのは読者にいらぬ負担をかけるから)。
せりふはしゃべった人と場面に応じて変えるので、地の文とは異なる使い分けをしているケースがあります(年齢や性格、教育程度などを考慮して調整する)。同じ人のせりふで揺れているのは、統一ミスの可能性と、語りかけている相手に応じた使い分けの可能性があります。
●ん音便やら抜き言葉など
本に応じて以下のように使い分けています。使い分けは、柔らかめに振る方向で。こちらも、本を読み慣れていない人にも読みやすくするためです。
・使わない
・しゃべった言葉(カッコがついていないケースも)では使う、地の文では使わない
・地の文も含めて使う
●「?」「!」などの後ろ
そこで文が終わるなら全角アケ、文が終わらず続くなら「全角アケなし」にしています。
●文字コードの限界について
訳稿はSJISテキストで記述しています。そのため、一部の特殊文字は別の字で代用しています。ゲラ化の際、本来の文字へ変換をお願いします。
・ダーシは「――」
・2分アケなどは半角スペースあるいは全角スペース
など
■参考
訳出や表記などについて、私がなにを考えているのかを記したブログ記事です。お時間があれば読んでみていただけると、えんぴつを入れる際の参考になると思います。
書かれていること・書かれていないこと vs. 明示的に書かれていること・暗示的に書かれていること
明示的に書かれていること・暗示的に書かれていること ―― 補足
a(b + c) や (a + b)c の訳し方
「の」の連続は避ける
連続を避ける
「の」が連続したときの書き換え例
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