『続・情報のなわ張り理論』
(2020年12月に投稿したはずのフォルダーに入っているのに、投稿がないようなので、遅ればせながら投稿します。大昔のことを「先日」とか書いているのは、当時書いたものそのままだからです)
~の専門家、だれそれは「……」と言っています。
みたいな文章、翻訳ものだとよくあるじゃないですか。ノンフィクションの書籍とか、あと、産業系でもウェブ関連とかで頻出。あれ、私、ダメなんです。「で?」と思っちゃう。英語で読んでいるとなんとも思わず、するりと入ってくるんですが、日本語だとだめ。語っている専門家と、その言葉を紹介している筆者と、読者である自分の距離感のようなものがつかめないって言えばいいのかなぁ。
たぶん、英語なら主語がすべてをコントロールするので、ああそうなのねとすんなり入ってくるのに対し、日本語は、どうしても語り手が言葉の端々ににじむので、うん、専門家の意見はわかった、で、あんたはどういう意見なのよって筆者に対して思ってしまうんじゃないかと。前投稿『知覚と行為の認知言語学:「私」は自分の外にある』で紹介した、英語は「傍観者的ないし超越的な観点からの見方が優勢」というあたりが効いてると言ってもいいのかもしれません。なんか、ヒトゴト感が漂う気がしてしかたないんですよね。
だというのに、私は、いま、よりによってノンフィクションの書籍に軸足を置いているわけで、この手の原文が数え切れないくらい出てきます。しかたがないので、この何年か、試行錯誤を重ねています。毎回、悩みに悩んで。その結果、前述のような紋切り型に比べればそれなりに収まりがつくように訳せているつもりではあるけれど、まだ、本当のところ、どうすればいいのか、どういう考え方で訳せばいいのか、よくわかっていません。
ですが、こういう話、翻訳者のあいだで出た記憶がないんですよね。いや、まあ、ずっと悩んでいる私自身、出してなかったりするんで、みんな、悩んでいるけど表に出してないだけかも知れませんけど。
ともかく、そんな状態なので、こんなこと感じるのは私くらいなのかなぁと思わないでもありませんでした。その懸念を払拭してくれたのが本書、『続・情報のなわ張り理論』です。(前置きなげーよ>自分)
「続」ということは、続のないバージョンがあるはずで、実際、存在します。もう古本でしか手に入りませんが。
■『続・情報のなわ張り理論』
■『情報のなわ張り理論』(「続」のないバージョン)
私は、「続」が出ていることに気づく前に古い方を買ったので、ともかく両方とも読んでみましたが、いまから買うなら、「続」のほうだけで十分です。著者も、「続」の頭にそう書いてますし、続から続けて両方読んでみた結果、そのとおりだと思いました。
(この本は、勉強会でご一緒した人がどこかでちょろっと触れていて知りました)
■縄張りの図(p.16)
(こちらは後日アップロードする予定です。スキャンした画像が見当たらず、本そのものもいま手元にないものでm(._.)m)
すごく乱暴にまとめてしまえば……話し手が語る内容が、話し手と聞き手、それぞれの縄張りのどのあたりに位置するのか、さらには、その内容が聞き手の縄張りのどのあたりに位置していると話し手が想定しているのか、それによって、言い方が微妙に変化する。そういう話です。
冒頭のケースについて言えば、話し手(著者)が専門家の言葉を引くという形式でぽんと投げ出されると、その内容を話し手が自分の縄張りのどのあたりに位置していると思っているのか、それがわからないから、気持ち悪いんじゃないか、そういうことなんじゃないかと思います。聞き手(読者)は、基本的に知らない話、つまり、縄張り外の情報であるはずですし(だから本なんて読むわけで)、話し手も、そう想定しているはずです。だから、もやもやするのは、話し手の縄張りのどこに位置するのかがわからない、なのではないかと。専門家に尋ねて詳しくなっているから自分の縄張りの中である、つまり、よく知っているという立場で、自分より詳しくない読者に語っているのか、それとも、読者にかわって専門家に話を聞き、それを読者に伝えているのか(つまり、著者は、自分は読者と同じくよく知らないと考えている、その情報は著者の縄張り外にある)、そこが判然としないということです。
英語は、専門家がこう語ったという事実をぽんと投げ出して、なにも問題にならないんですけどね。『知覚と行為の認知言語学:「私」は自分の外にある』でも引用したように、「英語は『傍観者的ないし超越的な観点からの見方が優勢』」だから、と言ってもいいのかもしれません。
じゃあ、冒頭のようなケースをどう訳せばいいのか、というと、わかりませんm(._.)m 翻訳の現場に落とし込む作業はこれからです。この本には書かれていないし(もともと、そういう目的の本じゃないので)、この本を一読しただけですぱーっと視界が開けるほど簡単な問題ではないとも思います。でも、いろいろなヒントは書かれているように思います。だから、なんどか読み返してみれば、翻訳の技術に落とし込むこともできるのではないかと感じています。少なくとも、いままで、こういう考え方でいいのか、こういう訳し方をしてもいいのかと、若干の迷いを抱きつつ、でも、自分の言語感覚からするとこうしないと変なんだよなとしてきたことに、ある意味、お墨付きをもらったような感じで、これからは、「いいはず」「なにかやり方があるはず」とあきらめずにぶつかれるなと思っています。
日本語を扱うケースは特にそうだと思うのですが、「言葉を通じて、その先にいる人(筆者や読者)をとらえなければ翻訳など不可能だ」と、私は考えてきました。その私にとって、先日紹介した『知覚と行為の認知言語学』やこの『続・情報のなわ張り理論』は、いずれも、すごく納得のいく話でした。
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コメント
私が日々頭を悩ませていることに関係する話かな?と思って興味を持ちました(まだ一読しただけで、たぶんまだちゃんと理解できていない)。
例えば、和訳をしながら、読者にとって新規な情報となるであろう新しい知見を述べようとしているのか、従来知られていた情報を以降の話の前提として念のために情報提供しているのか、自分がよく知らない技術分野の話だと判断しかねることがあります。
自分がよく知っている技術分野の話だと、話の全体像が見えているので、そこにその文章を筆者が挟んだ意図も、ほぼ迷わず読み取れるような気がするのですが……。
両者では、しっくりくる日本語表現が微妙に違うはずだと思うだけに、悩ましく思います。
ただし、いつもその場その場の勘でやっているので、適切な日本語表現が具体的にどう違うか、どういう手段で自分が感じているその違いを表現すべきかを、自分の頭の中で公式化することができていません。
投稿: べんがら | 2023年5月15日 (月) 10時14分
ああ、なんか先入観なく素直に読んで、『~の専門家、だれそれは「……」と言っています』という話に絞って考えると、上記の私の話とはだいぶ違いますね。ごめんなさい。
でもなんか近いものを感じました。それを挿入した筆者の意図がわかるかわからないか、わかる場合はその意図を日本語表現にどう反映させるか。読み取った意図によって、相応しい表現が微妙に違うんじゃないか、という点で。
投稿: べんがら | 2023年5月15日 (月) 10時38分