書かれていること・書かれていないこと vs. 明示的に書かれていること・暗示的に書かれていること
先日、ツイッターで、とある方と、「何も足さない・何も引かない」について意見を交わす機会がありました。その後、こういう説明にしたら、もしかしたらわかってもらいやすいのかもと思ったことがあるので書いておきます。
「何も足さない・何も引かない」とは、字面の問題ではなく、あくまで内容の問題、翻訳フォーラムで「絵」と言っているレベルの問題であることは、このブログでも何度か取り上げています。
ここで問題になるのが、何をもって「何も足さない、何も引かない」というか、です。単語の並びなど、形の上で「何も足さない、何も引かない」ようにすれば、それは字面訳にしかなりません。翻訳では内容レベルにおいて「何も足さない、何も引かない」ようにしなければならないのです。
以下の式を実現するのが翻訳だ、と言ってもいいでしょう。
原文を読んだ読者が受けとる情報(=著者が伝えたいと思った情報)
= 訳文を読んだ読者が受けとる情報
「翻訳フォーラム・シンポジウム2019~足さない・引かない~」
原文と同じ絵を届けられる訳文にするため言葉を足したり引いたりするのは「足さない・引かない翻訳」である、逆に、字面で「足さない・引かない」を実現したがゆえに「足しちゃった・引いちゃった翻訳」になるケースもありうる、足し引きの判断はあくまで絵を基準にすべきだ……
足したり引いたりしているように見えるけど絵で評価すれば足しても引いてもいない訳、足したり引いたりしているように見えて絵も足したり引いたりしている訳、足したり引いたりしているように見えないかもしれないけど絵で評価すれば足したり引いたりしてしまっている訳と、いろいろな訳がありえますし、実際に存在します。目の前にある原文と訳文がどういう関係なのかは、著者や原文の読者、訳文の読者といった人間の思考や感情や意図といったものを考えないと判断できません。
取り上げているのですが……腹落ちは意外にしにくいことだったりします。まあ、だからこそ、2019年の翻訳フォーラム・シンポジウムで丸一日をかけて議論したりしたわけです。
というわけで、本題です。
ツイッターのやりとりで例に出たのは「地名」でした。原著になにげなく出てくる地名が日本の読者にはなじみがないなんて、よくある話です。原著の著者は、自分の本を読む人ならここは知っているはず、と考え、地名だけぽんと出しているわけですが、その本を翻訳するというのは、その著者が想定した対象読者とは異なる読者層に届けようとする行為なのですから、原著者の想定が外れてしまうのです。
そのとき、それがどこなのか、どういう場所なのかを補足するのは、「足す・引く」行為なのか、それとも、「足さない・引かない」行為なのか。
一般に、これは、「足す・引く」行為とされているようです。「翻訳フォーラム・シンポジウム2019~足さない・引かない~」で紹介した、「最近、機械翻訳の導入うんぬんに絡んで、あれこれ考えて足したり引いたりできるのは人間ならではある、翻訳は足したり引いたりしてなんぼ、というような意見を見るようになりました」における「足したり引いたり」の具体例と言っていいでしょう。
でも、私は、これは「足さない・引かない」翻訳だと思っています。それがどこなのか、どういう場所なのかは、原文に書かれていることを訳出しただけだ、と。暗示的に書かれていること、ですけどね。また逆に、そこを「訳出」しないのは訳抜けだとも思います。
自分が文章を書くケースを考えてみましょう。
想定読者が常識として知っているはずのことなら、わざわざ書かないのが基本ですよね。そうでなければ、なにからなにまで事細かに書かなければならなくなってしまいます。それこそ、この段落なら、「想定」とはなんぞや、「読者」とはなんぞや、「常識」とはなんぞやというところからして。そんなことをしていたら、言いたいことが埋もれてわけのわからない文章になります。ですから、想定読者が知っているはずのことは書きません。これが、小学校の低学年向けだったら、想定読者とはなんぞやとか、そういうことも書かなきゃいけないわけですが(だれに読んでほしいのか、それを考えて、その人だったら、このくらいは知っているはずと思うことは……みたいに?)
言い換えると、どんな文章も、明示的に書いて説明していることと、読者はこのくらい知っているはずと著者が考えていること(だから、明示的に書くことはしないという選択をしたこと)でできているわけです。
いや、書かれていないことは文章を構成する要素のはずないじゃんと思う人もいるでしょう。でも、明示的に書かれていないことがわからないと、つまり、その文章が前提としている知識がないと、読んでもなにがなにやら理解できませんよね。そういう前提知識から順に説明されればわかるはずなのに。
地名に話を戻します。
著者は、「ああ、あそこね」と読者が思うはずと考えて書いているわけです。それが、原文読者が受け取る絵。ところが、翻訳で同じように地名だけをぽんと提示したら、訳文の読者は「それ、どこよ?」と思ってしまうでしょう。これでは、受け取る絵が、原文と訳文で異なってしまいます。訳文の読者も「ああ、あそこね」になるべく近いものが受け取れるようにするには、それがどういう場所なのか、文脈に即した説明を入れる必要があります。原著の著者も、訳文の読者を想定して書けばそうしたはずです。そうすれば、「ふーん、そういうところなんだ」くらいにはなりますから。
結局、この場所、知ってるよね?という判断が形になったのが、地名だけぽんと出す原文であり、その、この場所を訳出すれば、どういう場所なのかの説明が表に出てくるわけです。つまり、「足さない・引かない」翻訳。その説明のない訳文は、「引いちゃった翻訳」、訳抜け、と言えるでしょう。
逆に、「ここ、知らないよね」と著者が提示するなんてケースもあります。その場合、翻訳で説明を入れてしまうのは(←やらかす人、意外にいます)、「足しちゃった翻訳」、勝手訳です。原文の読者は「それ、どこよ?」と思うはずなのに、訳文の読者は、「ふーん、そういうところなんだ」になってしまうわけですから。
同じく逆に、原文読者はよく知らないはずだけど訳文読者はよく知っているはずという情報もあります。この場合、著者は、「知らないかもしれないけど、こんなところがあって……」とか書き、原文読者は「ふむふむ、そうなんだ」と受け取るわけですが、それをそのまま訳すと、訳文読者は、「んなわかりきったこと、なにをくだくだ書いてるんだ」と思ったりするわけです。たとえば英日で、「お寿司ってものがあってぇ、お酢をしませてご飯を小さな直方体に整形し、そこにお魚などを薄く切ったものを載せるんだけど、これが基本的に生でぇ……」なんて書かれていたとき、そのまま訳して日本語版にしたら、日本の読者は、「はぁ……?」って思うでしょう。理由は、訳出しちゃいけないところまで訳出してしまったから、言い換えれば、「足してしまった」からです。このような場合、話の展開上、触れておくべきところ以外は言外に押し出し、あくまで暗示的に書くにとどめる、とするのがまっとうな翻訳だと私は思います。
……という記事を何日か前に下書きして、あとで読み直してから投稿しようと思っていたら、JITF2020で松丸さとみさんが語られた「ニュース翻訳、基本のき」についての記事が屋根裏通信にアップされました。
松丸さんの考えるニュース翻訳とは……日本語読者に合わせてときには(最低限の)足したり引いたりが必要で……
……
上述の「足したり引いたり」については、Q&Aで「どこまで?」という質問が出たように記憶していますが、あくまでも「約束事に従って必要最低限にとどめる」ということです(たとえば、原文はJohnsonとしか書かれていないものを日本語版は「ジョンソン首相」とする、社名や個人名に(その方が読者がスッと読めると思えば)「何者か」情報を付加するなど)。
これは、いずれも、原文に暗黙に書かれていることの訳出であって、足したり引いたりじゃない、というのが私の考えです。挙げられている例なら、原文にJohnsonとあり、原文の読者は、「ああ、首相のJohnsonね」という「絵」を受け取るはずなのであれば、かつ、日本の読者は「ジョンソンって誰だったっけ」という「絵」を受け取りがちなのであれば、「ジョンソン首相」として「ジョンソンっていう首相の人なんだ」という「絵」を日本の読者に届けるのが翻訳だと思うわけです。
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