誤解されやすい翻訳業界の常識――産業翻訳は情報を伝える、文芸翻訳は心を伝える
これ、産業翻訳と文芸翻訳の違いとしてわりとよく言われることだと思うのですが、そんな簡単に分けられるものではないというか、そう考えてしまうと、特に産業翻訳で道を誤りかねないのではないかと私は思っています。
文芸翻訳について言われる「心」とは、原著者の心、ですよね。逆に言えば、産業翻訳で取り扱う文書には原著者の心といったものが現れない、あくまで情報を伝えるものだから、ということのはずです。
ほんとにそうでしょうか。
新製品のプレスリリースやホワイトペーパーには、「この製品、ここがすごいんですよ」という心が現れていたりしません? 論文だって、「こんな新しいことがわかったんだよ」って心が現れていたりしません? マニュアルだって、「この製品は、こう使うとこんなことができるんですよ? すごいでしょ?」って心が現れていたりしません?
私は、そういう心が現れていると思うし、そう思って翻訳をしてきました。
だって、ねぇ。
文章は、すべからく、だれかがなにかを伝えようとして生み出すものじゃないんでしょうか。であれば、どんなに技術色が濃いものであっても行間に人がにじむはず。っていうか、そもそも言葉ってそのために発するものなので、人がにじまない言葉なんてありえないと私は思っていたりします。論文だって新技術のホワイトペーパーだって、(自分で翻訳したことはありませんが)特許明細書だって。そこをすくわない翻訳は翻訳じゃないと私は考えていますし、そういう方針で、30年近く、産業翻訳にも向き合ってきました。蛇足を承知で付け加えるなら、私が高単価を得られたのは、ほかの人たちが切り捨てる原著者の心を拾う翻訳をしてきたからだと思っています(私はそこを売りとしてアピールしてきましたから)。
念のため付け加えておくと、英語と日本語では(私がわかるのはこの2言語だけで、ほかはわかりませんが……)、ふつうに書いたとき、どのくらい人がにじむかが異なります。だから、翻訳時にはにじむレベルを調整してあげないと情報にノイズが乗ってしまいます。情報を伝えるのが産業翻訳だからと、英語と同じような言い回しの日本語にすると、人のにじみ方が日本語としては少なくなりすぎてしまい、どこかヒトゴトに聞こえます。これ、すごいんですよ? いいものなんですよ?という心が伝わらなくなったりするんです。
言い換えれば、狭義の情報を正確に伝えるためには、行間も考慮しないといけないんです。少なくとも私はそう思って仕事をしています。
文芸と産業に違いがないと言いたいわけではありません。違いは、もちろん、あります。字面に表現されていることと行間に表現されていること、その比率は異なります。でも、逆に言えば、違うのは比率であって、有無じゃないんです。
産業系は情報を伝えるものだから訳者の個性を出してはいけない、対して、文芸系は訳者が個性を発揮できる、みたいな言い方もよくされます。
これも、ねぇ。
産業系のクライアントにとって望ましいのは個性がないことじゃなくて、伝えたい内容がきちんと伝わること、です。それを多人数で作りたいから、ある程度のかせをはめているだけのことです。そこ、目的と手段を取り違えちゃうケースが多いから、IT系を中心になに言ってるのか原文読まないとよくわからないような訳文が出てきやすいんです。
そもそも、個性がない文章って不可能だと思うんですよね。上の人がにじむと同じで、書き手の個性は必ずにじみます。そして、それを消そうとすればするほど、文章には無理がかかり、質が低下します。だから、多人数で書くための統一と質の低下とをどこでどう折り合わせるのかがポイントであり、難しいところなんだと私は思っています。
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