英語の複数形を「たち」や「ら」と訳していいのか
日本語に複数形はないが、人の場合、複数であることを示したければ「たち」「ら」をつければいい、みたいな感じになっているように思います。特に複数形のある外国語から日本語への翻訳では、機械的に付けてるんじゃないかと思ってしまうほどよく付いていたりします。
これ、昔っから気になってしかたがないんですよね。っていうか、それは違うだろうと思うんです。日本語は、基本的に単複同形であり、そのまま複数を表現できる。そこにあえて「たち」「ら」を追加すると、別の意味が付加されかねない、と。翻訳であれば、複数形を「たち」「ら」などと訳すと誤訳になることさえある、と。特に、属性を示す単語に「たち」とか「ら」とか付けるのはあぶない、と。
He'd wanted those agreements so badly that he'd done the negotiating personally. Ordinarily, on an issue with as many strategic implications as this, the CEOs would have agreed in principle and then left their underlings to see whether an agreement could be worked out. Steve got each CEO to say, “We'll consider it,” and then had been willing to do the horse-trading himself.
(『偶像復活』の原本、“iCon”から)
上記英語のCEOsは、CEOが複数人いることを示しています。ほかの可能性はありません。
これを、「CEOたちが大筋について合意し……」とか「CEOらが大筋について合意し……」とかしたらどうでしょう。CEOが複数人いることを示している可能性もありますが、どちらかというと、「CEOとCOOとCTOと……など、CEOクラスの各種役職についている人が何人もいる」ことを示している可能性が大きいと思うんですよね。つまり前記の訳を読んだ人は、たとえば「CEOとCOOが合意したのかな」と思ってもおかしくない、と。
いやいや、「たち」や「ら」は複数を表すもの、それがついてるモノが複数あることを示すもの、ほかの解釈はありえないと言う方がおられたら、「自分たち」や「わたしら」はどう解釈するのか尋ねてみたいですね。自分やわたしが複数いるんでしょうか。
このごろ、セミナーで取り上げているネタも紹介しちゃいましょう。
- 社長が集まる会議
- 社長らが集まる会議
- 社長たちが集まる会議
はどうでしょう? みんな同じですか?
たとえば、以下のような会話があったら?
- (社員A)
- あれ? 専務は?
- (社員B)
- いませんよ。今日は、社長が集まる会議の日じゃないですか。
専務さん、たぶん、会議には出てません。この会議に出られるのは社長だけで、専務さんには出席資格がないので(代理出席という可能性はありますが)。でも、会議に出る社長のサポートがあるのか、それとも、社長不在の穴埋め的役割をほかで果たさなければならないのか、ともかく、なにか、会議から連想される業務があって、そういう日はいないのが当然って感じの会話なんじゃないでしょうか。
- (社員A)
- あれ? 専務は?
- (社員B)
- いませんよ。今日は、社長たちが集まる会議の日じゃないですか。
これ、専務も会議に出席してる可能性がけっこうありますよね。会議は、その会社の社長、専務、常務なんかが集まるものかもしれませんし、いろんな会社の社長とか専務とか、経営幹部が集まるものかもしれません。でもともかく、専務にも出席資格があって、その会議に参加している可能性が高い会話でしょう。
そうは言われても、複数であることに意味がある原文だったら、あるいは、日本語で書き下ろす場合でも複数であることに意味があるなら、複数だと明示する必要がある、そういう場合はどうするんだって思われるかもしれません。
私は、基本、複数にしたい単語以外の部分で、複数であることを示すのが日本語だと思っています。
たとえば、上記「社長が集まる」の社長は複数です。ひとりじゃ集まれませんからね。「歴代の社長」も複数。「後任の社長」は単数か複数か判然としませんが(基本は単数でしょう)、「後任の社長はみな……」とか「後任の社長に順に話を聞いたところ……」なら複数確定です。
前述“iCon”で挙げた例は、「CEO間で大筋について合意し……」としました。「間」が複数であることを示すわけです。ちなみに、「CEOが大筋について合意し……」でもかまいません。「合意」はひとりじゃできない→複数である、と示されるので。
やり方はいくらでもあります。当たり前です。日本語って、長年、多くの人に使われてきたんですから。その単語自体の形を変えて複数形にしなきゃいけないなんて英語的発想にとらわれさえしなければ、日本語らしいやり方で複数を示す方法に気づくはずです。
というわけで、私は、複数であることを示すために「たち」「ら」などは使わない、を基本にしています。「たち」「ら」を付けるのは、「自分たち」「きみたち」のような場合や、あと、「デービッドたち」のような固有名詞くらいにするわけです。固有名詞やそれに準ずるものなら、そのものを含むいろいろであることが明確で誤読の危険もなければ、読者を迷わせるおそれもありませんからね。
あ、もちろん、単に日本語を書くときにも、同じようにしています。「たち」「ら」を書いたら、必ず、これ、ほんとにいるの? なくす方法はない?って考えるわけです。訳文読むときにやる、いじわるに読むってやつです(「原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む。」)。っていうか、そこでちゃんと癖をつけておかなければ、ほかのこともたくさん気にしなければならない翻訳では、まずまちがいなく、やってしまいますからね~。
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コメント
「たち」や「ら」って語感がよくないです。反感があるとか、蔑視してるように聞こえます。
投稿: Life Rover | 2020年3月12日 (木) 09時46分
マニュアルなどでは複数であることを明示しなければならない場合もありますので「複数の~」と訳すこともあります
投稿: たんご屋 | 2020年3月12日 (木) 09時54分
語感ですか。言われてみれば、あんまりよくない気がしますね。定義としては中立のはずだと思うんですが……十把一絡げで個別に見ていない感じ→軽く見ているって風に感じているのかもしれません。
投稿: Buckeye | 2020年3月16日 (月) 10時20分
「複数の~」、たしかに使いますね。あんまり気にしていませんでした。
せっかくなので過去の仕事をgrep検索してみました。必ずしも原文まで戻って確認してはいないので、multipleなどの訳として「複数の~」を使っているケースもあるはずなのですが、ともかく、けっこうな数がありました。また、改めて見てみると、「複数の~」が単純に不要なものもいくつかありましたし、表現を工夫すべきだったなと思うものはもっとたくさんありました。
今後は、「複数の~」と書きそうになったら、ほんとに必要なのか、ほかの表現方法はないのかなど、一度立ち止まって考えるようにしたいと思います。
ご指摘、ありがとうございますm(._.)m
-------grep結果の一部
状況に合わせて複数のアバターを使い分ける
複数のアイデアを比較・評価する
重なり合う複数のウィンドウ
↓
「複数の」は不要。複数であることはほかの部分で表現されている。
事業を拡大し、ひとつあるいは複数の発展途上国に普及させる段階だ
↓
事業を拡大し、発展途上国に普及させる段階だ
(発展途上国が対象である点が大事な文。発展途上国が単数の場合も複数の場合もあるから英語はまだるっこしい表現になっているだけのことで、日本語なら「ひとつあるいは複数の」なしですっきり表現できたのに……)
複数の袋にカードを分け、1袋4ドルで売る
↓
カードを分けて袋詰めし、1袋4ドルで売る
複数のスタジオを競わせられる
↓
スタジオ同士を競わせられる
バックストーリーはだれにでもあるのです。実際、複数のバックストーリーがあるはずです。
↓
バックストーリーはだれにでもあるのです。いや、それこそ、いくつもあるはずです。
投稿: Buckeye | 2020年3月16日 (月) 10時20分