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2020年3月

2020年3月19日 (木)

カギ括弧と句点、?などの関係について

文の最後には句点を打つ。それが基本ですが、現実にはいろいろと難しいケースが出てきます。

■文が終わっていることを示す機能

これが一番の機能なわけですが、この機能を果たすのは、句点だけじゃありません。「?」「!」「!?」なども使われたりします。句点以外のものを使う場合やカギ括弧がある場合は悩ましいケースだと言えます。

■「?」などを使う場合

この場合、後ろ全角一マス空けが基本になります。

え? そう思った方も少なくないのではないでしょうか。ツイッターやブログで全角アケにしている人はめったにいませんから。でも、さきほどのところ、「え?そう思った方も少なくないのではないでしょうか」ってしたらなんか変だと感じませんか?

我々翻訳者は物書きの端くれだと思うんですが、そういう仕事をしていて、なお、「?」などの後ろを全角一マス空けにしない人、少なくありません。正直なところ、日本語の本を読んでいるとき、なにを見ているのだろうと思ってしまいます。まあ、えらそーなことを言ってる私も、翻訳専業になって何年かはまるで気にしていなかったように思いますけど(^^;)

勝手な想像なのですが、句読点は、ある意味、空白に近いから句読点として機能するのではないかと私は思っています。「、」も「。」も、ぱっと見、そこが空間に見えますよね? だから、文がそこで切れていると感じられる、と。先日の段落頭カギ括弧じゃありませんが、見た目から受ける印象って大事だと思うんですよ。

対して「?」「!」「!?」などは、マス目が埋まっている感じになります。つまり、それだけでは、切れ感が足りない。かといって、「?。」とかするのはどう考えても変です。なので、「? 」と後ろ全角一マス空けにするのが自然ということになったのではないでしょうか。

逆に言えば、そこで文章が終わらなければ、「?」「!」「!?」などの後ろを全角一マス空けにする必要はない。いや、空けちゃいけない、と言うべきですね。

どういうことかというと……

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2020年3月16日 (月)

段落頭のカギ括弧

日本語の場合、段落頭は一字下げるのが基本です。これは、どこからどこまでが段落であるのかをわかりやすくするためでしょう。

ブログやSNSのように、段落間を1行空けることで表現するケースもあります。

段落頭一字下げが基本のケースで、例外的に下げない場合があります。よくあるのは(↓)でしょうか。

  • 箇条書きなど、段落頭になにかがくっついている場合
  • 段落頭が括弧の場合

(小見出しなどの直後だけ下げないという形式もありますが、それは今回の話とずれるので横に置いておきます)

箇条書きなど、段落頭になにかがくっついていれば、字下げしないのは当然ですね。逆に、段落頭が括弧の場合は、括弧が空白に近いため、一字下げ相当という扱いになっているのだと思います。

先日、とある雑誌を読んでいて気になったのが、この処理。

書籍などのカギ括弧は1文字分しっかり取る大きさのことが多いのですが、その雑誌のDTPでは、カギ括弧が半角分くらいに細いのです。カギ括弧が文章中に出てきた場合はそのほうがきれいに見える気もしますし、雑誌のように1行の文字数が少ないとカギ括弧が1文字分取っていると間延びして見えそうな気もします。ですから、それはいいのですが……

問題は、カギ括弧が段落頭に来た場合。カギ括弧が半角分の幅ということは、その次の文字が半角分、前にずれてしまうわけで。その状態からカギ括弧をなくすと、一字下げではなく半字下げにしかなりません。しかも、その半字が完全な空白ではなく、カギ括弧があるわけで。これじゃ、段落頭に見えません。こういう処理なら、段落頭のカギ括弧はその前後なりを少し空けるなどして調整しないとだめなんじゃないでしょうか。実際、話の展開がなんかおかしいなぁと思ったら、途中で段落が変わっていたとかありました。前段落最後の行がちょうど幅いっぱいまでだと、段落が変わったことに気づかなかったりするんです。段落って、文章の理解を助ける大きな装置なわけで、それがきちんと働かないのは困ります。

Kindleとかでもそうなってることがあって、そっちは画一的な処理にせざるをえなくてしかたないんだろうなとは思うんですが、印刷物は、ちゃんと組版してほしいですね~。

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2020年3月12日 (木)

英語の複数形を「たち」や「ら」と訳していいのか

日本語に複数形はないが、人の場合、複数であることを示したければ「たち」「ら」をつければいい、みたいな感じになっているように思います。特に複数形のある外国語から日本語への翻訳では、機械的に付けてるんじゃないかと思ってしまうほどよく付いていたりします。

これ、昔っから気になってしかたがないんですよね。っていうか、それは違うだろうと思うんです。日本語は、基本的に単複同形であり、そのまま複数を表現できる。そこにあえて「たち」「ら」を追加すると、別の意味が付加されかねない、と。翻訳であれば、複数形を「たち」「ら」などと訳すと誤訳になることさえある、と。特に、属性を示す単語に「たち」とか「ら」とか付けるのはあぶない、と。

He'd wanted those agreements so badly that he'd done the negotiating personally. Ordinarily, on an issue with as many strategic implications as this, the CEOs would have agreed in principle and then left their underlings to see whether an agreement could be worked out. Steve got each CEO to say, “We'll consider it,” and then had been willing to do the horse-trading himself.
『偶像復活』の原本、“iCon”から)

上記英語のCEOsは、CEOが複数人いることを示しています。ほかの可能性はありません。

これを、「CEOたちが大筋について合意し……」とか「CEOらが大筋について合意し……」とかしたらどうでしょう。CEOが複数人いることを示している可能性もありますが、どちらかというと、「CEOとCOOとCTOと……など、CEOクラスの各種役職についている人が何人もいる」ことを示している可能性が大きいと思うんですよね。つまり前記の訳を読んだ人は、たとえば「CEOとCOOが合意したのかな」と思ってもおかしくない、と。

いやいや、「たち」や「ら」は複数を表すもの、それがついてるモノが複数あることを示すもの、ほかの解釈はありえないと言う方がおられたら、「自分たち」や「わたしら」はどう解釈するのか尋ねてみたいですね。自分やわたしが複数いるんでしょうか。

このごろ、セミナーで取り上げているネタも紹介しちゃいましょう。

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