JTF翻訳祭2019のレポートを読んで思ったこと-その1「multi-profession(複業)」
JTF翻訳祭2019について、ぽつぽつレポートが上がり始めました。企画された方々と登壇された方々ががっぷり組んで、全体として、とても勉強になるいい会になったようですね~。行けなかったのが残念です。
そのひとつでちょっと気になる部分があったのでこの記事を書いています。
まずは、2時間目「機械翻訳時代のサバイバル戦略」(井口富美子・梅田智宏・加藤泰・成田崇宏)において、生き残り戦略として提案されたとレポートされている(↓)です。
>> multi-profession(複業)で生きる
どういう文脈で出てきたのかわからないんですが、「機械翻訳時代のサバイバル戦略」のひとつが「複業で生きる」なはずで、ということは、普通に考えると、「MTが普及して翻訳業界の仕事じゃ食えなくなったら、なにか別のことも始めて複業にしたらいいんじゃね?」という話のように思えます。
んなアホな。
どんな商売でも軌道に乗せてお金を稼ぐのは容易じゃありません。片手間でやってがんがん儲かるなんて話はまずありません。たまたま、なにかについて人並み外れた目利きだとかがあればいいけど、普通の人がまじめにやって稼げる額なんてたかが知れてます。
……と、これだけでもいい気がしないでもないのですが、もう少し詳しく検討してみましょう。
念のため書いておきますが、この点がそんなはずないじゃんという話だったとしても、このセッションの全体がだめということにはなりません。っていうか、このセッション全体は、いろいろと考えさせられるとてもいいものだったと多くの人が評価していますし、そういう人たちが言っていることを読んでも、また、そもそもパネリストの顔ぶれを見るだけでも、よかったんだろうなと思うものだったりします。
必要な稼ぎを100として、いま、翻訳で100稼げているとしましょう。
「サバイバル戦略」なので、以下では、基本的に経済面のみを考慮対象とし、好きとかやりがいとか、そういうことは考えません。また、前述のような話だと想定し(現場で話を聞いていないので違っている可能性もありますが)、もうひとつの職業は翻訳と特に関係ないものを基本にします。
■シナリオ1-MTPEに移行するケース
MTPEばっかになって単価が下がり、フルに仕事をしても80しか稼げなくなった。お金が足らなくなるので、複業化する。
もうひとのなにかをする時間は? フルにPEしてたらそんな時間ありません。つまり、PEを減らさなきゃいけない。
仮に60稼ぐレベルまでPEを減らすとしましょう。その時間でなにか始めて……どんだけ稼げるんでしょうか。
もうひとつの稼ぎが10だったら? PEフルにやってるほうがいいですよね。
もうひとつの稼ぎが20だったら?
両方続けてもいいけど、その仕事とPE、どっちか好きな方に絞ったほうがいいんじゃないでしょうか。片手間より集中したほうがいい結果が出せると思います。
っていうか、その程度なら、そもそも、複業化しなくてもよかったんじゃないかと私は思ってしまいます。そしたら、新しい仕事を始める苦労とかしなくてすむわけですから。
もうひとつの稼ぎが30だったら?
複業化が成功。ばんざ~い!?……なんでしょうか? そうじゃなくて、PEやめて、そっちに鞍替えしたほうがいいんじゃないでしょうか。だって、PE20の時間で30稼げる、フルPEで80稼いでいたのなら、計算上は、鞍替えしたら120稼げるはずなんですから。
農家の人が、雪に閉ざされる冬場、スキー学校で先生やるみたいな複業とは話が違います。どっちをやってもいい時間をふたつとか三つとかに振り分けることになんのメリットがあるのか、私にはわかりません。どれかがダメになってもなんとかなるようにっていうリスクヘッジ以外には。
■シナリオ2-MTPEに移行しないケース
MTPEの普及によって、翻訳の受注量が減って手が空くことが増え、80しか稼げなくなった。お金が足らなくなるので、複業化する。
この場合、もうひとつのなにかをする時間はあります。空いた時間の有効活用ってやつですね。
これなら、新たに始めるなにかによる稼ぎが10でも5でも、稼げないよりマシと言えます。少なくとも勧める人は、これで複業化にメリットがあると言うでしょう。
でもどうなんでしょう。
翻訳より稼げないのなら、翻訳の受注量を増やす努力をしたほうがいいんじゃないでしょうか。時間当たりの稼ぎは翻訳のほうが多いわけですし。あと、そもそも、複業を合計した稼ぎが必要額の100に達していない時点で、だめだめだと思うんですが。
もうひとつの稼ぎが20だったら、シナリオ1と同じで、どっちかに絞ったほうがよさそうです。
そして、もうひとつの稼ぎが30だったら、これまたシナリオ1と同じで、もうひとつのほうに鞍替えしたほうがいいでしょう。
■シナリオ2'-MTPEに移行しないケースその2
シナリオ2のちょっと違うバージョンとして、必要な稼ぎを100として、いま、翻訳では120稼げており、それが80まで落ちたケースを考えてみます。もとは余裕があったのが、だんだん厳しくなり、ついに、お金が足らなくなったというケースです。
翻訳なら40稼げるだけの時間が空いたわけです。だから、翻訳ほど時間当たり稼げないなにかを追加して、そっちで20稼げれば、合計で100を達成できます。
これなら複業化にメリットがあるというか、複業化成功って感じますよね。
……本当のところはどうなんでしょう。
そのさらに先はどうなるんでしょう。
翻訳の稼ぎがさらに20減り、60まで落ちたら? その時間をもうひとつにつぎ込んでも、10しか稼げない計算です。つまり、全体合計が90と必要額を下回ってしまいます。
まあ、翻訳の受注を増やせないのであれば、翻訳による稼ぎが100を下回った時点でアウトであり、対して複業化すれば翻訳による稼ぎが80までは「サバイバル」できる、だから複業化にメリットがあるって考え方もありますけどね。
ただ、人間というものの性格も考慮すると、その考えはかえって危ない気もするんです。
複業化って、前述のように基本的にリスクヘッジであり、安心感の得られる道です。こっちがだめでもなんとかなるだろうって思えるので。その状態に身を置いて、じり貧の翻訳業を支えられるんですか? なにがなんでも翻訳にしがみつくぞって必死でやってる同業者との競争に勝てるんですか? その状態で勝てるほどの人なら、そもそも、翻訳の仕事が減ったとき新規開拓してもとに戻すくらい簡単だと思うんですけど。
■シナリオ3-翻訳と相乗効果があるものとの複業化
想定する基本条件を変えて、そちらも検討してみましょう。翻訳と相乗効果があるものとの複業化です。
これならアリですよね。MTPEに移行するシナリオ1のようなケースでも、移行しないシナリオ2のようなケースでも、相乗効果があるなら、やって損はないはずです。それぞれから上がるものに相乗効果部分がプラスされるわけですから。
でも、じゃあ、なにをすればいいんでしょう。
……………………私には浮かびません。
そもそも、そんないい話があるなら、とっくに話題になってると思うんですよ。
だって、単価下がって苦しいって話なんて、もう、20年も昔からあるんですから。そうだったことは、2001年のJTF翻訳祭における私の講演「勝ち残る翻訳者-高低二極分化する翻訳マーケットの中で」を読んでいただければわかります。また、このころ、実際に、本を何冊も出したりして業界内で名が通っていた翻訳者が単価下落のあおりを受けて引退するなんてことも起きています。
それから20年。だれも思いつけなかったことなんですよね。ライフスタイル的に、翻訳と関係ない好きなことを追求し、そこから翻訳の仕事が広がり……みたいな話は折々出ますけど、それは次元が違う話です。
そりゃたしかに、いままでだれも思いつけなかっただけに、それを思いつければいいビジネスになるかもしれませんけど、ね。
■そもそも論
professionって、重いと思うんですよね。どんなものでも簡単じゃないって。ひとつだってなかなか力が伸びないのに、それ、ふたつも三つもって……気が遠くなります。そのすべてで、そこに専心している人と競わなければならないんだし。
そのあたり、なんとかクリアできたとしても(a big if)、時間の配分という問題があります。
ふたつの仕事は、それぞれのタイムテーブルで動くわけです。穴を埋め合うようにきれいに融合してくれればいいですが、そんなうまい話はまずありません。シナリオ検討では、空いた時間をぜんぶほかのことに使えるかのごとく書きましたが、それは無理で、どちらの仕事もなくて手が空く時間ができたりします。っていうか、それはまだいいほうの話で、ぶつかったらどうするんでしょう。結局どうなるかは、フリーランスで翻訳の仕事をしている人なら実感としてよくよくわかっているはずです。仕事が翻訳だけでもややこしいのに、それとまったく違う仕事も絡んだら……スケジュールの調整はさらにややこしくなるでしょう。
私はかなり長いこと、長期にわたる書籍の翻訳と、受注したその日かせいぜい翌日には収めなきゃいけないけど1本1本は短いプレスリリースの翻訳を2本柱にしていたんですが、これは最強の組み合わせだったと思っています。書籍の翻訳でスケジュールはずっと埋まりますし、時間単価は高いけどあるときとないときの差が激しいプレスリリースは、来るたびそこに割り込ませればいいわけで。実際、当時、スケジュールの問題でプレスリリースを断った記憶、ありません。
ともかく。
複業って、最近、特に会社員向けとかでバズワード化している言葉だと思います。いままでは副業うんぬんだったけど、これからは、会社ももうひとつも本業とする複業の時代だ、みたいな感じで。
会社員は、拘束時間以外、なにをしていても給料は変わらないのでいいんですよ。そこでアパート経営するとか、悪くないやり方かもしれません。でも、翻訳者にそんな時間、あります? お金をもらえる翻訳をしていないときって、私は、遊んでいるか(気分転換も必要です)、勉強しているか、生活にどうしても必要なあれこれをしているか、です。それだけで時間が足りないって悲鳴を上げているのに……。
というわけで、ふとぼんやりしたとき、いろいろ考えてみるのはいいと思いますけど、それを当てにするというか、仕事並みの真剣さで複業化を考えるのは危ない気が私はしてしまいます。
っていうか、そんなことに時間を使うくらいなら、翻訳の力をつけることと、いい取引先をみつけることに注力したほうがいい結果を出せるんじゃないでしょうかね。こちらは、どうすればいいのかだいたいわかっているし、私を含め、いろんな人がどうすればいいのかを公開しているわけですから。
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