河野弘毅さんの「機械翻訳の時代に活躍できる人材になるために」について
特別寄稿、『道を拓く』を書いた通訳翻訳ジャーナル2019年4月号が発売になり、私の手元にも献本が届きました。私の記事と並んで特集の「通訳者・翻訳者がやるべきこと」に掲載されている河野弘毅さんの記事「機械翻訳の時代に活躍できる人材になるために」を読んでいろいろと思ったことがあるので、雑ぱくになりますが、メモしておこうと思います。
本論に入る前に、ちょっと予備知識を。
まずは、この記事を書かれた河野弘毅さんについて。略歴が記事にありますが、もうちょっと詳しく説明しましょう。
河野さんは、私と同じようにもともと技術系の出身で、こういう技術が大好きです。翻訳メモリー登場時、業界に先駆けて活用してかなりの成功を収め、業界で有名になりました。私が専業翻訳者として独立したころは、翻訳メモリー導入の成功者、時代の寵児という感じで、業界誌などにもよく登場していました。しかし、その後、翻訳メモリーが普及してレペティション部分を中心に単価がどんどん下落したこともあって、経営していた翻訳会社を清算。その後も、翻訳会社に勤めるなど、ほぼ一環してこの業界にかかわっています。いまは、機械翻訳のコンサルタントが主業務です。
記事で「発言者の『ポジション』に注意して話を聞く必要がある」とご本人も書かれていますが、河野さんのポジションは「機械翻訳の導入を進める側」、もっとはっきり書けば「機械翻訳の導入が進んでくれないとご飯が食べられない人」です。
私との関係もざっと書いておきましょう。
私も技術大好き人間なので、河野さんとは、同じようなものに興味を引かれる者同士、技術とその影響について、ずいぶんと議論してきました。いわゆる翻訳会社側の河野さんと徹底的に翻訳者の私ということから、立場が大きく異なり、その結果、功罪の判断も真逆になることが多かっただけに、まあ、よくやりましたね。河野さんは自分で翻訳をしていた時期もあるので、翻訳作業に対する影響の部分についての議論にもついてこられるので、議論は多岐にわたりました。
仲はいいですよ。河野さんがどう思っておられるのかはわかりませんが、私は、業界内で仲のいい人と考えたとき、河野さんは上位にきます。河野さんとなら、議論でいろいろと理解を深めることができますから。オンラインのコミュニティがSNS中心になったあたりからは、オンラインで議論がしにくくなってしまい、河野さんと議論することもほとんどなくなったのが残念なくらいです。もちろん、いまでも、会って時間があればいろいろと意見を交換をする間柄です。
で、今回の記事ですが、かなりよく書かれていると思います。上手にまとめてあるという意味においても、バランスよく書かれているという意味においても。いかにも機械翻訳推進派という書き方ではなく、現役翻訳者に一定の配慮がなされているという意味においても。
それでも、どうしても突っこみたいところが私にはあるんです。紙面の都合もあって、そこはさらっと流したんだと河野さんは言われるかもしれないのですが。いや、違うな。Buckeyeさんなら、そこ、突っこんでくると思ったよと言われそう(笑)
長くなりました。いくらなんでも前置きはこのくらいにして、そろそろ、本題に入りましょう。相手が河野さんなので、遠慮なく突っこみます。
------------------------
■現役翻訳者が問題にしているのはMT出力の質そのもののみにあらず
ベテラン翻訳者は「MTが良くなったと言うが自分に比べればまだまだ」と言っているに等しいと河野さんは書かれています。それ自体は正しい。そのとおりです。でも、ね、話はそれだけじゃありません。
すでに、下手な翻訳志望者より上手なところまでMTは進化している、というのも、本当でしょう。
だから、
- その人たちにMT+PEをやってもらえば、最終的なアウトプットの質は上がる。
- 初心者にとっては、MT出力のほうが上手なので勉強になる。
と、MT推進派の人は言います(ちょろっと実験した程度ですけど、一応、データは取られています)。これ、ほんとにあちこちで言われます。
たとえば2017年のJTF翻訳祭。懇親会で、Sakinoさんが言われたそうです。SakinoもBuckeyeも現実がわかってない、と。MT+PEをやってもらうのは上記のような人であって、あんたらじゃない。だから、メリットこそあれデメリットはない、心配することはなにもない、と。
んなバカな。
我々が本当に問題にしているのは、そこじゃありません。「翻訳者視点で機械翻訳を語る会」でも書きましたけど、翻訳者が育たなくなることが一番大きな問題なんです。翻訳者として成長していきたいと思って業界に入ってきた人も含めて。
MTより下手な人にMT+PEをしてもらえば……っていうのは、いわば、まだ料理が下手な人には合わせ調味料を使ってもらったほうがいいというような話です。Cook Doとか、いっぱいありますよね? あの手のヤツです。
そのほうがおいしいものができるというのは、そうでしょう。私、あの手のヤツ以上においしい料理を次々に作る自信、ありません。いや、はっきり言って、できません。だから使ってます。重宝してます。それでいいんです。プロの料理人にはならないからです。
でも、合わせ調味料を使う料理ばかりしていて、プロの料理人になれるんですか? 合わせ調味料を使う料理ばかりしていて、合わせ調味料など使い物にならんと言えるくらい料理が上手になれるんですか? 「私に比べればまだまだ」と機械翻訳をけなせる「ベテラン翻訳者」になれるんですか? そうなりたいと思っている人も、いま、下手だったらそっちに行かなきゃいけないんですか? 「ベテラン翻訳者」だって、みんな、最初はド下手だったのに。
目先はメリットがあるけど、長期的にはデメリットになることなんて、世の中、いくらでもあります。
さらに言うなら、MT+PEのたとえにされたら合わせ調味料がかわいそうです。
合わせ調味料は安定しています。対してMT出力は不安定です。いわば、塩とかこしょうとかその他調味料とかの混合割合が袋ごとに違っているんで、味見して、まずかった場合は、人間がなんとか味をととのえるPEをしてねって話です。PEで塩ふったりするから料理の腕もあがるはず……って、そんなことにならないのは、ちょっと想像力があればわかるはずです。
■「ベテラン翻訳者」の立ち位置
この記事には「ベテラン翻訳者の言説をうのみにするな」と書かれていて、それはそれで正しい姿勢なのですが、「うのみにするな」=「否定しろ」ではないことにも注意が必要です。河野さんも「誰がどういう意図でそれを言っているのか、発言者の『ポジション』に注意して話を聞く必要がある」とされていますが、「ベテラン翻訳者」なる人たちはどういう意図を持っているのでしょう。
MT+PEの仕事をしたくない? それはあるでしょう。でも、それだけなら、時間と手間暇かけてなんだかんだ言う必要はありません。打診されたとき、「私はやらない」と断ればいいだけのことです。ベテランということは、人手でやるべき仕事が優先的に回ってくる人たちのはずですから。
MT+PEで若手が台頭してくるのを避けたいんだろう、自分が取り残されるのがこわいんだろう、という意見も見たことがあります。言われる側のひとりとして失笑を禁じ得ないのですが。
そんな心配をしている人、いません。少なくとも、私が知っている範囲には。
だって、逆ですから。若手がみんなMT+PEに行ってくれたら、それでは処理できないような案件をできる人は増えなくなる、いや、引退する人もいるから人数は減っていく、競争はだんだんなくなっていく方向なのですから。私にとって、ここ20年、CATツールで起きたことと同じように。
このブログでは、CATツールを使っていると文脈の把握や構築に悪影響が出るよと危険性を訴えつづけてきましたが、その間、CATツールは業界にどんどん普及しました。すでに、CATツールなしの仕事など存在しないに等しいと思っている人が多数派でしょう。おかげで、私は安泰です。2005年からは、意識して、CATツールで悪影響が出る部分に力を注いできたから、です。15年近く注力してきた結果、そこの処理能力はそれなりに身についたと思うし、そこに価値を見いだしてくれる人と仕事ができるようになっているし、私をそこから蹴落とせるほどの人が登場する可能性は年々下がっているわけですから。
じゃあ、みんな、なんで、警鐘を鳴らそうとするんでしょう。
みんな、いい翻訳がしたい、上手な翻訳者になりたいと思って努力してきたし、各自、それなりに成果をあげてきたわけで(だから「ベテラン翻訳者」なんて呼ばれたりするわけで)、同じような願いをもってこれからこの業界に入ってくる人にも、その願いをかなえてほしいと思っているからでしょう。そういう人が、「これからはMT+PE」という言説をうのみにして、こんなはずじゃなかったと後々思うことがないように、と。「自分はMT+PEに活路を見いだしたい」――そう思う人たちだけでやってくれ、ほかの道を歩みたいと思っている人まで巻き込まないでやってくれ、と。
■新しい仕事はいつ生まれるのか、PEからそっちに行けるのか
と、いろいろ書いてきましたが、河野さんの記事、実は、いろんな意味でよく書けてるんですよね。業界全体の動きとしては、河野さんが予想するような形になるんじゃないかなと私も思っています。
そういう意味でもよく書けているのですが、これを個人の翻訳者が読むと、そんなことは書かれていないのに、なんかそっちに行ったほうが得なように感じるっていう意味でも、よく書けています。
「MTが普及したら新しい仕事がたくさん生まれる」……たぶん、そうなるでしょう。異論、ありません。でも、それは、河野さんも書いているように翻訳とは違う仕事。いま、翻訳者をしている人や、いま、翻訳者をめざしている人がそういう仕事をしたいのかっていう問題がまずあります。自分はどう思うのか、なにをめざすのか。それを考えないのは、河野さんも注意を喚起されている「うのみにする」行為です。
また、たくさん生まれるとされている仕事のうち、いま、あちこちで目にするのはPEのみです。いま、PEを始めるのが、今後生まれる仕事につながる道なのでしょうか? そのあたりも、よくよく考えてみる必要があるでしょう。
ちなみに、私は、つながらないと思っています。河野さんのために申し添えておくと、この記事、「PEやるべし」なんてひと言も書いてないんですよね。さぁ~っと読むと、そう言われてるような気にはなりますが。
河野さんの記事は、業界全体としては正しいことを書いていると思います。うそやごまかしもないので、読んでいると、あ、信頼できそうという感じになります。欠けているのは、個人の視点。個の幸せと全体の幸せが一致するのか否かの検討。河野さんらしいとは思いますけどね。昔っから、河野さんと私で議論になるのはココでしたから。私は河野さんと逆の立場で、どうすれば、一人ひとりの翻訳者が幸せになれるのか、からしか業界を見ないので。河野さんからも、「Buckeyeさん、昔っから、徹底的に翻訳者目線ですよね。ここまでぶれないのには驚かされます」みたいなことを言われたことがあるほどに。
というわけで、河野さんの言説もうのみにせず、各自、自分はどっちに歩いていくのか、よく考えて進みましょう。それがMT+PEであれその関連のなにかであれ、あるいは、そこを避けていく道であれ。
| 固定リンク
「翻訳-ビジネス的側面」カテゴリの記事
- 河野弘毅さんの「機械翻訳の時代に活躍できる人材になるために」について(2019.02.22)
- 産業系の新規開拓で訳書は武器になるのか(2019.02.21)
- 『道を拓く』(通訳翻訳ジャーナル特別寄稿)(2019.02.15)
- 仕事にも「枠組み」がある(2014.08.12)
- 消費税の取り扱い(2012.10.10)
「翻訳-業界」カテゴリの記事
- 私が日本翻訳連盟の会員になっている訳(2019.02.27)
- 河野弘毅さんの「機械翻訳の時代に活躍できる人材になるために」について(2019.02.22)
- 産業系の新規開拓で訳書は武器になるのか(2019.02.21)
- 『道を拓く』(通訳翻訳ジャーナル特別寄稿)(2019.02.15)
- 翻訳者視点で機械翻訳を語る会(2019.01.23)
「翻訳-暮らし・人生」カテゴリの記事
- 河野弘毅さんの「機械翻訳の時代に活躍できる人材になるために」について(2019.02.22)
- 産業系の新規開拓で訳書は武器になるのか(2019.02.21)
- 『道を拓く』(通訳翻訳ジャーナル特別寄稿)(2019.02.15)
- メキシコ人漁師とMBA(2011.02.23)
コメント
>> これを個人の翻訳者が読むと、
>> そんなことは書かれていないのに、
>> なんかそっちに行ったほうが得なように
>> 感じるっていう意味でも、よく書けています。
まあ、それを言ったら、私の記事は私の記事で、さらっと読むと、MTとか使わず品質追求の道に行ったほうがいいよって感じるはずなんですよね。私は私で、自分はそう思ってやってみて満足している、と書いているだけで、そのほうがいい、とは書いてないんですが。私の話はあくまで一例だからねって、一応、明記はしてありますが。
投稿: Buckeye | 2019年2月25日 (月) 12時31分