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2018年8月11日 (土)

部分否定

最近気になっていることがあります。部分否定です。これがおかしくなっている日本語をよく見るのです。

日本語の場合、「すべてが~できない」は全否定であり、部分否定なら「すべてが~できるわけではない」「必ずしも~できるわけではない」「~できないものがある」「一部は~できない」「~できるとはかぎらない」などとなります。なのに、部分否定であるはずの文脈で「すべてが~できない」のような書き方をしているわけです。

「すべてが~できない」を部分否定のつもりで使うのは、英語の“not all”が部分否定だからなのではないか、つまり、“not all”を下手な翻訳で「すべての~が~できない」としてしまい、それが広まりつつあるのではないかと危惧しています。まあ、推測でしかなくて真偽のほどはわかりませんけど。

ともかく、プロ翻訳者でもよくやらかしているというのがなんともはやです。翻訳するときじゃなく、日本語で文章を書いていてやらかすということは、部分否定のイメージが頭にあるのに部分否定の日本語が出てこないってことでしょう。それって、部分否定の日本語が使えなくなっているのか、あるいは、全否定を部分否定だと思うようになってしまっているのか。

そういうのを見ると、もしかして、いつも、“not all”を部分否定とわかったうえで「すべてが~できない」的な訳し方をしているんじゃないかと思ったりします。つまり、いつもそう訳しているうちに染まってしまい、日本語のほうがおかしくなったのかなぁ、と。で、そういう人は、きっと、これ以外にもいろいろと英語表現に引っぱられた日本語に染まっちゃってるんじゃないかなぁ、と。(allなど英語の数量表現はほぼ必ず名詞の前にあるけど、日本語は多様。なのに、翻訳では数量表現を名詞の前に置いた日本語ばかりっていうのも気になる点だったりしますけど、それはとりあえず横に置いておきます)

このあたり、翻訳者なら職業病というくらい気にならないといかんと思うんですけど。どうなんでしょう。

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