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2018年6月 7日 (木)

翻訳の方向性について

シンポジウム関連であれこれ書いていたら、タイムリーなつぶやきが、文芸系の出版翻訳をされている鴻巣友季子さんからありました。以下、鴻巣さんのツイッター(@yukikonosu)からです。

翻訳家志望の方へ。「こなれた訳文」ばかり目指さないでと言いたいです。「こなれた訳文」「巧みな訳文」「美しい日本語」よりまずは「的確な読みとフォーカスの合った訳文」が大事と思います。昔、生硬で読みにくい訳文が多くそれに対する批判が強かったせいか、「読みやすさ過敏症」になりがちです。

読みが的確で訳文のフォーカスが合っていれば、自然とめりはりもつくし、こなれるし、良い日本語になります。訳文上達には、書くスキルより先に読むスキルを上げるといいと思います。というか、書くスキル「だけ」上達させることは無理ですよね。

誤解なきよう追記すると、「こなれた訳文」も「読みやすい訳文」も「巧い訳文」も「美しい日本語」もそれ自体はいいんです(原文が醜悪なら訳文も醜悪でありたいですが)。問題はいきなりそこを翻訳の目的地にしてしまうこと。それより読む力が上がれば自然と訳文は良くなる、ということです。

ここに書かれていることは、ここしばらく、翻訳フォーラムがシンポジウムやレッスンシリーズなどで訴えてきていることと本質的に同じです。読めないものは訳せない。読めているつもりが読めていない。原文と訳文で同じ絵になるようにする、そうすれば、(原文がちゃんとしていれば)ちゃんとした日本語になる……などなど。そして「読みが的確で訳文のフォーカスが合っていれば」を実現する具体的な手法が、テンスやアスペクトであり、述語からの読みであり、今回取りあげたコヒージョンや流れであり、たぶん、今後取りあげるであろうあれやらこれやらでありなわけです。あと、「翻訳」のシンポジウムやレッスンでありながら、訳し方にはほとんど触れず、読み方中心で来たのも同じですね。

どういう訳文であるのははあくまで結果であって目的ではない――私もいまはそう思っているのですが、そう思うようになったのがいつなのかはよく覚えていません。出版翻訳に足を踏み入れたころ(2005年)はまだ明確に意識していなかったように思います。そのころは、アマゾンなどの書評で「読みやすい」と言われるとそれなりにうれしかったように記憶しているので。ただ、そのころから、それはなんか違うんだよなぁとも感じていました。鴻巣友季子さんの「訳しにくさの正体」という講演を聴いた2011年ごろ(「翻訳調の功罪」)には、結果という意識になっていたのではないかと思いますが。

「書く力」と「読む力」どっちが先かっていうのは、ある程度ケースバイケースってところもあります。書く力がついて、0か100かみたいなおおざっぱな話だけでなく、55と56の違いを表現しようとするようになれば、読むときにも細かな違いが気になり、深く読むようになるってこともありますから。まあでも、どっちかと言えば、読むほうが先のことが多いでしょうね。

ともかく、このあたり、意識としては同じであっても具体的な方法論としてはいろいろと悩ましいことがあります。

鴻巣さんも、上記に続けて以下のように書かれています。

翻訳物を何十年と読みつけてきた方と、翻訳物はあまり読まない方から、正反対の感想が寄せられ考え込む。実はこれは十年位前から気づいていたことだ。前者は「近年翻訳日本語があまりにこなれている」ことに戸惑い、後者は「あまりに読みにくいので読む気を失う」翻訳書の読み手が二極化しているのです

昔(昭和)は外国文学は「えらい」と思われていたので、訳文が読みにくくても必死で読んだ。難解さに有難みすらあった。今は読書に自らの知識の追認や同質性を求める傾向もあり、読みにくい翻訳は読まれない。一方、翻訳文学通はむしろ異質性に魅力を感じ、原文の見えない"透明な翻訳"をあまり好まない

上記の話が、7年前、鴻巣さんの講演会で私が突っ込んで紛糾した点。私の考えはそのときのことを書いたブログ記事(「翻訳調の功罪」)にも書いていますが、言語的ざらつき感、ゴツゴツ感なんぞくそくらえ、です。もうちょっと丁寧に(^^;)表現すれば、原文がさらりと読めるこなれたものなら訳文もさらりと読めるこなれたものにする、です。

このあたりは、越前さんも悩まれているようです。「『日本人なら必ず悪訳する英文』刊行記念講演会」やそれを受けて書いた「原著者が日本語を知っていたらどう書くか」でとりあげ、その後、越前さんの翻訳百景で「ガチンコ翻訳勝負」した(「翻訳百景ミニイベント」)のが、まさしく、この部分でして。どういう翻訳をめざすのかを抽象的に表現すると同じなのに、具体的なやり方が大きく異なるのは、ここ(同質性か異質性か、同化翻訳か異化翻訳か)が原因なのでしょう。

私はもともと産業系出身であり、出版もノンフィクションです。その読者は、表現より内容を求めているはずであり、であれば、内容がすんなり頭に入るように言語的ざらつき感、ゴツゴツ感はないほうがいい、と思うわけです。ま、そもそも、言語的ざらつき感、ゴツゴツ感があると一読者として読みとおせないって個人的事情があるってのが一番大きいのかもしれませんが(^^;)

実際にはやりませんけど、もし、文芸系の翻訳をするとしたら(やらないというよりできないと思うんですよね)……私は、やはり、言語的ざらつき感、ゴツゴツ感のない翻訳をめざすでしょうね。翻訳文学の既存読者には不評であっても。それまで翻訳ものを敬遠してきた人を引き込むことをめざして。

次のやりとりも、示唆に富みます。

作家・演出家・翻訳家の谷賢一氏(@playnote)

はじめましてです。 僕は子供の頃から海外ミステリー小説とかが好きでよく読んでいましたが、外国語を翻訳するのだから平たい?文章になるのは仕方がないと思っていました。 逆に個性がありすぎると、オリジナルから離れていないか心配な気もしていました。 (・ω・)

鴻巣友季子さん(@yukikonosu)

難しい問題ですね。なにを「訳者の個性」と感じるのか。それは原作者の個性であり、訳文は忠実に写しているだけかもしれません。「外国語を翻訳したら平たい文章にならざるを得ない」という抜き難い感覚はどこから来るのでしょう。それは翻訳の忠実性とは言わないのですが。学校での英文和訳の影響かな

原著が平たくないのに翻訳が平たくなっちゃったのなら、それは訳者が下手なだけだと私は思ってしまいます。読みの段階で細かな起伏が読み取れずに落ちてしまっただけだろう、と。ただ、翻訳物は原作者の個性と訳者の個性の両方が入り交じってできあがっているというのも、また、事実です。

原文は楽譜で訳者は演奏者のようなもの、などと言われます。楽譜である原文が短調なのに演奏が長調になるとかはありえませんが、演奏者によってしっとり感が強い場合やちょっと歯切れがよくなる場合など、いろいろな演奏が考えられます。

翻訳も同じ。私が訳しているものはそれなりに私の個性がにじんでしまいます。それは避けられない。産業系などではそういう個性を排除する、みたいな話もありますが、ルールで個性を排除すれば(個性が排除できるようにとルールをたくさんがちがちに決めてしまえば)不自然な訳文になってしまいますし、そこまでやってさえ個性を完全に排除することはできません。でも、大きな方向性は原著者の個性によって決まります。たとえば『アップルを創った怪物―もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝』。「枠組みと訳出の方向性」でも書いているように、この本が全編語りのイメージになっているのは、原著がそういうイメージの英語だからですし、語りらしく崩れた日本語にしてあるのも、原著の英語自体がいい感じに崩れていたからです。私としては、自分にできるかぎり忠実に原著の個性を反映させただけと言ってもいいでしょう。

で、こういう話をすると、それは出版系に特有の話で産業系は違うと言われたりするんですが……ひとつ前の投稿にも書いたように、私は産業系もここに書いたようなことを考えながら訳していましたし、それを売りにしてもいました。出版系もいろいろなように、産業系も産業系でひとくくりにはできないということです。

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