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2014年8月18日 (月)

『沈みゆく帝国 スティーブ・ジョブズ亡きあと、アップルは偉大な企業でいられるのか』

だいぶ前のことになってしまいましたが、今年の頭からかかっていた本が6月18日に発行されました。スティーブ・ジョブズ亡きあとのアップルを追ったノンフィクションで、題名から推測されるように、本書が予想する未来は決して明るいものではありません。その結果、アップルの現CEOティム・クックが珍しく不快感を表したとか(普通なら黙殺する)、米国アマゾンのカスタマーレビューで評価がまっぷたつに分かれているとか、いろいろな意味で話題になっている書でもあります。

著者が来日して行われたイベントで、著者、解説者、訳者が並んで写真を撮るという実はけっこう珍しい事態が起きたので、その写真もアップしておきます。写真を撮ってくださったのは菊池美範さん。マニアックなカメラだったので、写真がお好きな方なのではないかと思います。

■左から訳者、著者、解説者

20140716_

では、恒例の裏話、行きましょうか。今回は珍しいパターンで仕事が進んだので、裏話がたくさんあります。

本書は、できたら訳者は井口にと著者の岩谷さんが要望されて私が担当することになったのですが、実は、そのころ、私は、同じ日経BPさんで別の本を担当することになっていました。予定されていたのは米国でとっくの昔に出版されていた本で、『ジェフ・ベゾス 果てなき野望―アマゾンを創った無敵の奇才経営者』のあとに取りかかる予定で私のところで止まっていた案件です。スケジュール的に両方は無理。どちらを担当するかは日経BPさんが私にげたを預けてくださいました。

このとき、どちらを選ぶのか、ずいぶんと迷いました。もう1冊も、すでに何冊も担当してきた著者の本で、私のなかでは優先順位が高いものだったからです。しばらく悩んだけれども答えが出ず、家族に相談すると……「それはあとから来た方でしょう。だって、そっちがやりたいんでしょ? よっぽどでなければ、先に決めたものが優先って悩まずに決めてるはずだもの」と即答が返ってきました。

言われてみればそのとおりで、目から鱗状態。というわけで、日経BPさんには迷惑をかけることになってしまうけれど、前に決まっていた本は降りてこちらをやらせていただくことにしたものです。

ところで名前を見ればわかると思いますが、著者の岩谷さんは日本語の読み書きが不自由なくできます。でも、プロの物書きとしての訓練は英語で受けていて売れる文章が書けるのは英語のみとのことで、翻訳は翻訳のプロに頼みたいと私のところにお話が回ってきたわけです。

その結果、訳した文章を原著者が読めるという、ある意味、翻訳者にとっては一番怖い状況が生まれました。「原著者が原文に込めた想いを考えて訳文を書く」などとえらそーなことをこのブログでも書いていますが、このやり方には、もしかしたら単なる勝手訳になっているかもしれないという問題がついて回ります。ただ普通は、原文を書いた人は日本語が読めないので、「ここは~という解釈でいいか」といった質問をしないかぎり、解釈まちがいがばれることはないわけです。でも今回は、原著者が訳文をぜんぶ読めます。解釈が違っていたりしたら……怖いですよね。

とは言え、いずれにしても、いまの自分にやれることしかやれません。というわけで、いつもどおりに訳出を進め、出版社さん経由で著者の方にも読んでいただきました。どうなるだろうかとどきどきしつつ。結果、おおむね気に入っていただけたようで安心することができました。もちろん、もうちょっとこうしてほしいといったニュアンス調整の依頼があったりもしましたし、ここはちょっと違うという指摘も何点かあったりしました(←正直な話、他人が訳すかぎりゼロにはなりません)。一方、「まさしくこういうことが書きたかった。自分が日本語で書いたのではこんなふうに書けなかった」と言っていただけたところもありました。私の場合、写真や動画、地図などをできるかぎり探して現実はどうなっているのかを確認するようにしているのですが、その結果、英語版の編集さんが最後に一言付け加えた結果まちがいになってしまったところを私の段階で修正・フィードバックして感謝されたなんてこともありました。

出版関係の人たちには、裏帯にあるティム・クックの評価、「寝言だ」の一言が好評のようです。先日お目にかかった記者の方からも、「あれ、インパクトがあってすごくいいんだけど、誰が訳したの?」と聞かれました。帯の言葉は本文の訳者が訳す場合と、ほかの人が訳す場合がありますが、今回は、私が訳しています。ちなみに原文は"Nonsense."です。そのまま「ナンセンス」としても悪くありませんし、英語が得意な人なら、「ナンセンス」とあったほうが頭の中に"Nonsense."の一言が浮かんでベターだとも言えるでしょう。英語の雰囲気が一番よく出ているとも言えるわけです。でも、仮にティム・クックが日本語ネイティブで一言吐き捨てるとしたら、「ナンセンス」とは言わないだろうと思うのです。というわけで、英語の"Nonsense."の意味や雰囲気を考慮しつつ、自分がティム・クックだったらその場面で何を言うだろうといろいろ考え、最終的に「寝言だ」を選んで日経BPさんにお送りしました。

なお、裏帯にある「寝言だ」にあれほどのインパクトがあるのは、翻訳の工夫によるものだけでなく、装丁をされた方の功績も大きくあります。ほかの人たちの言葉と同じサイズだったら、あれほどのインパクトは感じないはずです。なにせ、あれを見た瞬間、訳した本人がびっくりするほどのインパクトを感じたのですから。

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訳者あとがき

米国時間の2011年10月5日、アップルを大躍進させてきたカリスマ的リーダー、スティーブ・ジョブズが亡くなった。日本でもニュースで大きく取りあげられたし、さまざまな特集番組も放映されたので、記憶されている方が多いだろう。亡くなった当日だけでなく、翌日のニュースでも大きく取りあげられていて、外国企業トップの訃報がここまで大きく取りあげられるのかと驚いたことを私はよく覚えている。

そのあと、私は、ジョブズの死去を受けて刊行が4週間も前倒しになってしまった『スティーブ・ジョブズ』(講談社)の仕上げをふらふらになりながら進めていて、特集番組などもずいぶんおくれて録画で見たのだが、それはさておき、本書について少しご紹介しよう。

本書は、スティーブ・ジョブズが亡くなったあと、ティム・クックをトップとする新体制のアップルがどのような道を歩んでいるのか、また、今後、どのような道を歩んでいくと思われるのかについてを描いたものだ。

アップルというのはスティーブ・ジョブズという希代のイノベーターが経営していたからあれほどの会社になれたのであって、そのジョブズがいなくなれば、普通にすごいという程度まで落ちてしまう(という言い方になってしまうあたりも、アップルがいかにものすごい会社であるのかを示している)という見方もあった。一方、そのジョブズは「いつまでも続く会社を作ることに情熱を燃やしてきた」と言っているわけで、創業者よりも長生きする会社を作ろうとジョブズが注力してきたのだから、彼がいなくなってもアップルは大丈夫だという意見もあった。

いずれにせよ、ジョブズが亡くなった時点では、どのような予想も「当たるも八卦当たらぬも八卦」の世界でしかなかった。ジョブズ後のアップルがどうなるのか、データがまったくなかったからだ。だが、ジョブズが亡くなって2年あまりがたったいまなら、多少なりとも実績をもとにジョブズ後のアップルが予想できるはずだ。

著者の岩谷さんは、世界的な新聞であるウォール・ストリート・ジャーナル紙で敏腕記者として鳴らした人物である(岩谷さんは不自由なく日本語の読み書きができるのだが、プロとして書くのは英語の文章だとのことで、日本語版への翻訳は私が担当させていただくことになった)。本書は、その彼女が記者時代に集めた情報に加え、本書のために改めて入念な取材をおこない、集められたたくさんの事実がもとになっている。アップルの現状はどうなっているのか、未来はどうなるのか、多くの事実が全体として指ししめす大まかな方向が描きだされているのだ。

もちろん、ジョブズ死去からまだ2年あまりしかたっておらず、この時点で確たることなど誰にも言えるはずがないし、同じ事実から人によって異なる結論にいたるのもよくあることだ。だから、本書に描かれたアップルの未来に賛同しない人もいるだろう。現実のアップルが、あっと驚くような展開を見せてくれる可能性もある(ジョブズの下でではあるが、アップルというのはそういう展開をくり返してきた会社なのだし)。本当のところどうであるのか、その評価が固まるまで10年は待たなければならないだろう。

評価が固まっていない段階でアップルという世界中で高い人気を誇る会社の将来を描くというのは、とても意欲的だが、怖いことでもあると思う。描きあがった将来像が必ずしも明るくないとなればなおさらだ。

原著の『Haunted Empire: Apple After Steve Jobs』は、日本語版の3カ月前、2014年3月18日に刊行されているのだが、アメリカアマゾンのカスタマーレビューで評価がまっぷたつに分かれている。最高の星五つと最低の星ひとつが多く、中間が少ないのだ。ここまで評価が割れる本は珍しい。

ざっと見てみると、星ひとつという低い評価を付けているのは、岩谷さんが描いたアップルの将来像が気に入らない人が多いようだ。気持ちはわかる。新しい事実が出てくれば将来像も変わるわけで、岩谷さんが描いた将来像が変わるほどのなにかをもうすぐアップルが出してくれるのではないかと期待している部分が私のなかにもあるからだ。それどころか、岩谷さんのなかにもそういう部分があるのではないかと訳しながら感じていた。それでもなお、積み上げられた事実は重い。岩谷さんが描く将来像に賛同するかどうかは別として、岩谷さんがジャーナリストらしく地道に積み上げた事実に重みを認める人は、アメリカアマゾンのカスタマーレビューで星五つと高く評価している。

多くの事実と多くの人の意見を総合すれば、おそらく、敏腕ジャーナリスの岩谷さんが描かれたような将来像になるのだろう。だから、その将来像まで含めて「そうなのか」と信じつつ、読んでいくのもいいと思う。一方、世間の予想をいい意味で裏切り続けてきたのがアップルであり、今回も裏切ってくれるはずだ、そのとき、明るくない未来を予想した専門家たちはどういう顔をするのだろうと思いながら読んでもいいだろう。岩谷さんが集められた事実をもとに、自分なりの予測をしながら読むのもいいと思う。

岩谷さんが集められた事実には、過去、秘密のベールに包まれていた部分も多い。ティム・クック体制になってから、中国の製造現場における事件や特許係争などで明るみにでたことがたくさんあるのだ。そのような事実を追って読む、アップルの歴史の一番新しいページを読むという方法もあると思う。

とにかく、ジョブズ後のアップルについて、少しでも興味がある人には必読の書だと言える。

2014年5月   井口耕二

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コメント

見当違いの場所とは承知の上で発言させていただきます。

伝記「スティーブジョブズ」を読み、その後、本サイトの翻訳に関する記事を拝見しておもわずコメントしてみたくなりました。

過酷なスケジュールにもかかわらず、巧みな翻訳に感服いたしました。また、ブログでの対応の誠実さにも驚きました。
翻訳家という職業にいかに真摯に向き合っているかが伝わり、役者の苦労が少しだけわかったように思います。

素晴らしい本をありがとうございました。

投稿: koma | 2014年9月29日 (月) 18時21分

komaさん、

あたたかいお言葉、ありがとうございます。そう言っていただけると、本当に励みになります。我々の仕事は、きちんとできていれば特に気にされず、ミスれば怒られるというタイプなものですから。

『スティーブ・ジョブズ』では自分にできるかぎりのことをした結果、ミスがいくつか残ってしまっているのでお恥ずかしい限りですが……これからも、ミスを減らすとともに読者の方々が楽しんでいただける訳を作れるよう、精進していきます。

投稿: Buckeye | 2014年9月29日 (月) 21時44分

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