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2012年3月27日 (火)

『リーン・スタートアップ―ムダのない起業プロセスでイノベーションを生みだす』

今年2冊目の訳書が4月16日に出ることになりました。といっても、今年の1冊目、『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』は去年の夏前に訳したものなので、実質、今年訳した1冊目ですが。

実は本書、最初は別の翻訳者さんが担当することになっていたそうです。ところがその方が手をけがしてしまい、直っても痛みが残って無理ができないからと担当を降りられたため、私に話が回ってきたものです。著者が4月か5月には来日するという話があり、それまでには本を完成させたいという裏事情もあったので、前の翻訳者さんは無理と判断されたようです。で、ちょうど、同じ編集さんから別の本をいただいていてそろそろかかろうと思っていた私に、「その本の前にこちらを」と声がかかったわけです。

降板された翻訳者さんには申し訳ないのですが、私にとってはラッキーでした。

これ、すごくいい本です。

あとがきにも書いていますが、いわゆる起業で生まれるスタートアップだけでなく、大企業などの社内でイノベーションを生みだす際にも利用できる手法が詳しく紹介されています。組織論以外の部分については、それこそ私のような個人事業にも当てはまる話が多くあり、訳しながら自分の仕事をふり返ったところもたくさんありました。

例によって翻訳について一言。

リーン・スタートアップは提唱されたばかりで、概念も用語も、まだ日本語になっていません。そのため、著者が訴えたいこと、米国・日本のさまざまな状況の違い、日本語としてのイメージしやすさ、キレのよさなど、さまざまな条件を考慮しながらキーワードを自由に訳すという訳者としてはかなり楽しい時間もすごさせてもらいました。今回、著者の来日が4月頭と大幅に早まるなど厳しい条件もありましたが、キーワードについては編集さんと何度も議論するなどして、さまざまな工夫を施してあります。この原著は米国でかなり話題になっているそうで、日本でも、原著を買って読んでは情報交換をしている人たちがおられるので、そういう方々への通りのよさ(日本語だけ読む読者向けとは違う点にも注意を払わなければならい)などにも配慮したつもりです。

なお、ほかの人が提唱した概念などのなかには一部、既訳があるものもあります。そのような場合、本書にも適していると思った既訳は採用しましたが、本書の内容とどうにも合わない既訳は採用せず、まったく違う訳にしてあります。

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訳者あとがき

フレデリック・ウィンズロー・テイラーの『科学的管理法』に端を発し、20世紀はマネジメントが大きく進歩して、製造業を中心に生産能力が飛躍的に高まった。その結果、作れないものはない時代になった。いま、我々が直面しているのは「何を作るべきか」である。世の中にはすばらしいアイデアがたくさんあり、次々に新規事業が立ち上げられている。しかし成功するのはごく一握りで、あとは屍(しかばね)累々というのが現状だ。

この新規事業立ち上げの生産性や成功率を飛躍的に高めようというのが、本書『リーン・スタートアップ』のテーマである。20世紀のマネジメント革命に匹敵する変化を予感させる本書が『科学的管理法』の100年後にあたる昨年の2011年に米国で発行されたのは、不思議な巡り合わせと言うべきだろう。

さて、書名にもなっている「リーン・スタートアップ」、耳慣れない言葉だと思う人が多いのではないだろうか。

「スタートアップ」とは一般に起業や起業で作られた会社や組織をさすが、本書ではもう少し広く「新規事業の立ち上げ」とでもいうべき意味で使っている。つまり、本書であきらかにされた各種の手法は、ごく普通の企業が社内で新規事業を立ち上げる場合などにも使えるのだ。

では、どのような進め方で新規事業を立ち上げるのか。それが「リーン」だ。スポーツ選手を思い浮かべてもらえば、そのイメージがつかめると思う。鍛え上げられた体、俊敏で無駄のない動き、常人には信じられないほどのパワー―一流選手は皆、リーンの体現者である。組織における仕事の進め方をリーンにして、一流選手の戦い方と同じように無駄なく俊敏に新製品を開発し、新規事業を立ち上げられる手法を本書は提示する。

この「リーン」という概念、実は「リーン生産方式」として製造業の世界ではよく知られている。その元となったのはトヨタ生産方式。かんばんとかジャストインタイムなどのキーワードで有名な日本発の方式である。もともと日本の製造現場で生まれ、育まれた考え方なのだから、日本企業のマネジメントにもぴったりフィットするだろう。

本書にはこのほかにも新しい概念がたくさん登場する。誰も欲しがらない製品を作ってしまうムダをなくす「実 用最小限(MVP)の製品」、「構築―計測―学習のフィードバックループ」、従来の管理会計や財務会計と違ってスタートアップに適した「革新会計(イノベーションアカウンティング)」、「粘着型・ウイルス型・支出型の成長エンジン」……とてつもなく不確実な状態で新しい製品やサービスを創り出さなければならない組織にとって欠くことのできない概念ばかりだ。

たとえば実用最小限の製品(MVP)。新製品をまっさきに使いたがるアーリーアダプターに提供し、学びが得られるぎりぎりのレベルまでしか作り込んでいない製品のことである。MVPで早期に顧客からフィードバックを得れば、膨大な時間とお金とエネルギーを費やして誰も欲しがらない製品を作ってしまうムダを避けることができる。

リーン・スタートアップを支える根本的な思想は、「思い込みを捨て、実験による検証という科学的な進め方をする」だろう。だから、手法を正しく学べば誰にでも使える。一部の才能ある人や幸運な人でなくても、リーン・スタートアップの手法を活用すれば新規事業立ち上げの生産性や成功率を高められるのだ。

逆にいま一般的な製品開発のマネジメント手法は「ニセ科学」であり、「虚栄の評価基準」で「成功劇場」に酔うものだと手厳しいが、それが、一般的なマネジメント手法で自分も大失敗したし、コンサルタントとして数多くの失敗例を見てきた著者の正直な感想なのだろう。

ところで新規事業の立ち上げやまったく新しい製品の開発といえば、2011年に亡くなったスティーブ・ジョブズを思いだす人が多いだろう。マッキントッシュを皮切りにiPhoneやiPod、iTunes、iPadなど、目の前に見せられてはじめて「そうそう、こういうモノが欲しかったんだよ」と消費者が思うような製品を次々に生みだし、すべて大ヒットにした人物だ。

実は、彼の製品開発も、リーン・スタートアップ手法にのっとっている部分が多かったように思う。

もちろん、秘密主義で有名なアップルがMVPなどリリースするはずがない。だが、社内では、スティーブ・ジョブズというアーリーアダプターにMVPを提供し、そのフィードバックをもらうという形で製品開発が進められていた。そう、ジョブズは「社内顧客」だったのだ。社内で評価するとどうしても開発側に立った評価をしがちだが、ジョブズの製品評価が徹底的にユーザー目線であったことは、彼の伝記からもうかがえる。

社内の開発体制も部門横断的でジョブズというチームリーダーがいる。つまり、著者のエリック・リースがスタートアップやイノベーションに適していると推奨する形態になっている。トヨタは「生産を止めなくていいようにするため生産を止める」アンドンという方式を開発したが、アップルでは、品質問題が発生したらジョブズというアンドンがすべてをストップして問題解決にあたらせるという仕組みになっていた。

もちろん、違いもある。アップルの製品開発は重要機能がすべてジョブズに集約されていた。つまり、ジョブズという個人の才能に頼ったシステムになっていたのだ。天才に頼らず、普通の人が集まってジョブズと同じように製品開発が行えるようにする―その方法論がリーン・スタートアップだと言ってもいいのかもしれない。

2012年3月
井口耕二

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