« 『スティーブジョブズⅠ・Ⅱ』の翻訳について-その6 | トップページ | アメリカで禅体験 »

2011年11月 9日 (水)

『スティーブジョブズⅠ・Ⅱ』-誤訳の指摘

アマゾンの『スティーブ・ジョブズ II』のカスタマーレビューに、古本一番堂という方から、訳に対する疑問点が列挙されていました

なお翻訳については突貫工事であったことを考慮してもあまりほめられたものではない。以下、気づいた箇所のごく一部を挙げる。

とのことで、全部で16点の指摘がありましたので、それぞれについて、簡単にコメントしたいと思います。なお、結果として、指摘どおりでなにがしかのミスがあり要修正なところが4点、あと、指摘そのものではありませんがこれを契機に見直したところ改良の余地ありでせっかくならと直すところが4点、残り8点はさまざまな理由から私としてはいまのママにすべきだと思いました。

この段階にきて直すべきと思ったところがなんだかんだでこれだけあるというのは、私としては多いなぁという印象です(『スティーブ・ジョブズ』が全2巻で通常の3冊分くらいある分厚い書籍だとはいえ)。6年前の『偶像復活』では出版された時点で訳を間違えていたのが1点、一応、意図があってやってみたけどイマイチ失敗だったとあとから改善したのが1点ありましたけど、そのあとは、あまりなかったのに……「『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』-誤訳の指摘」でも書いたように、人間がする以上、いくら注意してもミスをゼロにすることは不可能で、解釈間違いという狭義の誤訳さえやってしまう可能性も常にあるのは確かなのですが、それでもやってしまうと気落ちしますね。

ともかく、ご迷惑をおかけした読者のみなさまには深くお詫びします。また、今後はさらに精進していかなければならないなと改めて気を引き締めております。

以下、古本一番堂さんに対する回答という形でコメントを書いてみます。

今回は回答といえるようなコメントを書いていますが、今後、似たような指摘があった場合にも同じことをするとは限りません。指摘に理があるか否かを検討し、必要があればどう直すのかを考えるだけならそれほどの時間はかかりませんが、回答コメントを書くとなると格段に長い時間がかかってしまいます。頭の中で瞬間的に考えたことをトレースし、それを他人にわかる形で文章にするというのは意外なほど時間がかかる作業なのです(なんだかんだで今日、ほぼ1日がつぶれました)。ですから、今後、同じようなことがあってもコメントまでは書かず、直すべき点があれば直すだけにとどめる可能性が高いと思います。

上巻 p.48
訳文:ヒースキットには基板もそろっていたし、部品もみんなカラーコードがついていた。
原文:Heathkits came with all the boards and parts color-coded,
疑問点:「ヒースキットは基板も部品もみんな色分けされていた」ではないのか。

英語だけを見ればそういう風にもとれますね。それがわかった上で、異なる意味の訳文にしてあります。

まず、関連の基礎知識ですが、電子部品である抵抗やコンデンサ(キャパシタと呼ぶこともある)には「カラーコード」というものが定められています。どういうものであるのかは、英語なら「color-coded resistor」や「color-coded capacitor」で画像検索をすると出てきますし、日本語なら「カラーコード 抵抗」「カラーコード コンデンサ」「カラーコード キャパシタ」などで出てきます。抵抗やコンデンサでカラーコードのないものもあるので、ここは、ヒースキットにはカラーコードのついた抵抗やコンデンサが使われていた(カラーコードのない抵抗やコンデンサが使われていたヒースキットもあるようですが、少なくとも、ジョブズが見たものはそうだった)と読むのが妥当でしょう。

一方、基板に一般的なカラーコードは定義されていません。それでも、古本一番堂さんがおっしゃるように「色分け」がされていたのであれば、若干不正確ながら基板と部品をまとめて"color-coded"で修飾することもあるかもしれません。

しかし、キットの基板が色分けされているというのは見たことがありません。一応、そちら系は中学生時代からの趣味であり、その体験からいって基板の色分けというのはまずないだろうと思うのです。ヒースキットは作ったことがないので、ヒースキットでは独自の色分けがなされていたという可能性はありますが、HeathkitsやHeathkitで画像検索しても基板が色分けされている様子はありません。もちろん、画像検索で出てくるのは基本的に最近のもので当時と違うかもしれませんし、昔のものとして提示されている写真も当時と同じ状態のものかどうかはわからないので、これも確たることは言えないのですが。

ちなみに、英語も日本語も"all"、「みんな」と(少なくとも部品は)すべてにカラーコードがついていたとありますが、これも実は少しおかしな話です。抵抗やコンデンサ以外の部品には、カラーコードがついていなかったはずだからです。たとえば、メーターやボリューム、バリコン、それこそつまみやジャックなどは、当然、カラーコードがなかったはずです(こういう部品にカラーコードは定められていないはずです。少なくとも私はいまだかつて見た記憶も話に聞いた記憶もありません)。そういう意味では原文も訳文も不正確です。原文がなぜこうなっているのかは不明ですが、それはさておき、訳文側をあえて不正確なママにしたのは、この程度でわかる人にはわかるし、逆に、わからない人にわかるほど詳しく書いたらものすごく長くなってしまうからです。本書はエレクトロニクスの入門書ではなく、カラーコードうんぬんはわかってもわからなくても全体として大きな意味を持たないわけで、エレクトロニクス関係の知識がない人にわかるほど長々と詳しく補足するのは読み物としての質を落とすだけだと判断したわけです。

そもそも、この部分はもともとがジョブズの思い出語りなので、正確性を求めること自体がまちがいだとも思います。エレクトロニクスの入門書ではないので正確である必要もありませんし。台本のない思い出語りの引用ということを考えれば、"Heathkits came with all the boards and parts"まで言ったところで、ああパーツはカラーコードがついていたなと思いだして付け加え、結局、ジョブズのつもりとしては"Heathkits came with all the boards and (parts color-coded)"だった可能性もあります。あくまで可能性ですけどね。

翻訳の場合、英語にどう書かれているのかがもちろん大切なのですが、現実がどうなっているのかも無視はできません。そういう意味で原文と離れているわかりやすい例として、ジョブズがリサと一緒にホテルオークラの寿司屋で食べたのが「うなぎ」か「穴子」かという問題があります。初出の20章で英語は"eel"なのでどちらもあり得ますが、40章では"unagi sushi"とはっきり「うなぎ」だと書かれています。それでも日本語版はあえて「穴子」としました。ホテルオークラの寿司屋に問い合わせたところ、「穴子しか置いていない。うなぎは置いていないし、過去、置いたこともない」と言われたからです。

上巻 p.133
訳文:彼は簡にして要だし、インテルのマーケティングを率いた経験もあった。
原文:He was short and he had been passed over for the top marketing job at Intel,
疑問点:「彼はチビだったし、インテルではマーケティング部門のトップになれなかった」ではないのか。

おっしゃるとおりですね。何を読んでいたのでしょう……。直しておきます。「彼は背も低かったし、インテルではマーケティング部門のトップになり損ねるという経験もしていた」くらいでしょうか。

上巻 p.174
訳文:クリスアン・ブレナンとの離婚にまつわる書類
疑問点:離婚どころか結婚もしてないはずです。

おっしゃるとおりですね。何をボケていたのでしょう……。直しておきます。「クリスアン・ブレナンと決着をつける書類」くらいでしょうか。

上巻 p.181
訳文:ランダムに選ばれた家庭にも1台のコンピュータがある可能性のほうが高い状況とならなければならない
原文:it will have to be as likely as not that a family, picked at random, will own one.
疑問点:ただの強調構文ではないのか。one は代名詞ではないのか?

そのとおりだと思いますし、そう思って訳したのですが……。古本一番堂さんとしてどこがどうだと言われたいのかよくわかりませんが、それはさておき、この訳文はなんだかわかりにくいですね。改めて見直してみると、「どこの家庭もだいたいはコンピュータを持つようになるはずだ」くらいのほうがよさそうです。直しておきます。

"picked at random"を訳出したのが失敗で、その結果、「だいたいは」の意味を展開せざるをえなくなり、なんだかわかりにくい一文にしてしまったようです。後半が苦しくなった時点でもうちょっと思いきって原文から離れればよかったのですが、このときは失敗したようです。「疲れて連想ゲームの幅が狭くなるリスク」が現実となってしまった部分と言えるかもしれません(--;) こういうわかりにくい訳にならないようにというのが訳出時に一番気にしていた部分のはずなんですが……まだまだ精進が足りませんね。

上巻 p.205
訳文:1981年6月を契機に
原文:around June 1981
疑問点:なぜ日付が「契機」になるのかわからない。「~頃」ではないのか。

翻訳用原文は「His fondness for the dark, industrial look of Sony receded around the time he began attending, starting in June 1981, the annual International Design Conference in Aspen」なので、ご指摘のような訳になっています。契約上、日本での翻訳原文は、著者から「これが翻訳用の原稿だ」として渡されたものでやらざるをえないので、ここはママとします。

念のため申し添えておきますと、契機となるのは基本的にモノゴトなので、日付が来るのはおかしいという考え方もあるでしょう。ただ、実用上、ある日付なりになにかがあったという文脈では、「(日付)を契機に」という使われ方もしています(ここもそうで「アスペンで毎年開催される国際デザイン会議に参加しはじめた1981年6月を契機に好みが大きく変化する」となっています)。このあたりは慣用としてどこまでを正しいコロケーションとして認めるかであり、どれが正解でどれが間違いということはない範疇に入ると思います。狭くとればおかしい表現と言えるし、ある程度広めにとれば正しい表現という範囲だろうということです。

上巻 p.228
訳文:マックに先駆けること
原文:before Mac was ready
疑問点:「先立つこと」ではないのか。

「先立つ」もありだとは思いますが、私としては「先駆けること1年」のほうがいいと思っています。語感というか好みというかの問題の範疇でしょう。

念のため、「先駆ける」については(↓)のような定義と例文が辞書にあることを指摘しておきます。
「先駆ける」……他に先んじて,物事をする。「他社に―・けて新製品を売り出す」(大辞林)

上巻 p.255
訳文:1~2週間で
原文:another couple weeks
疑問点:直前に「もうあと2週間あれば」とあるので "another couple weeks" も「もう2週間」ではないのか。

直前の「もうあと2週間あれば」は地の文の"All they needed was an extra two weeks"で、こちらは「2週間」と明確に書かれているのでそう訳してあります。せりふのほうは"another couple weeks"で、「2」と取るのが一番すなおではあるが「少数の」ともとれる若干ぼかした言い回しになっています(うがった見方をすれば、ジョブズには「ホントに2週間で終わるのか?」という考えが頭の隅にあり、それが若干ぼかした言い回しに出てきたという解釈もありえます)。また、英語で言い切るものが日本語では「ごろ」「など」が付くのもよくある話です(逆に日本語→英語では「ごろ」「など」が消えるケースも少なくない)。この2点を勘案した結果、このせりふの部分は少しぼかしておくことにしました。

このあたりは「翻訳時に消える言葉・出てくる言葉」にも多少、書いています。

ぼかすにあたっては、「2週間やそこらで」というような言い方もあれば、私が最終的に選んだように幅をもたせる言い方もあると思います。どちらでなければならないというものではなく、最終的にはどういうニュアンスをもたせたいかの問題になるでしょう。なお、幅をもたせるにあたり、"another couple weeks"なら「2~3週間」ではないのかと思う人もいると思います。それはわかった上で、あえて、ここは「1~2週間で」としています。「ほんのちょっと遅らせたところで」というジョブズの想いを出したいと考えたからです(←そう思ったのではないかと私は考えました)。

上巻 p.267
訳文:ドラマチックな能力
原文:a flair for the dramatic
疑問点:「演技力」ではないのか。

私も「演技力」がわかりやすいとは思いましたが……ここで言っているのはドラマチックに盛りあげる構成力、演出力、演技力などまでを含むものだと思うので、「演技力」ではせますぎるだろうと最終的にやめておきました。ただ、いま改めて見直してみると、「ドラマチックな能力」よりは「ドラマチックに盛り上げる技」くらいのほうがベターな気がします。ついでですから、ここも直しておきましょう。

上巻 p.271
訳文:コンピュータプログラムを習得しており
原文:was good at computer coding
疑問点:「コンピュータプログラミングに熟達していた」ではないのか。

私としては、ママのほうがいいと考えています。

もちろん、"good"だから「熟達」という考え方はあります。ただ、ゲイツとジョブズの比較において「ゲイツはプログラミングに熟達していた」とした場合、読者側の読み方として、「ジョブズはプログラミングを学び、ある程度はできるが熟達というレベルには達していなかった」という読み方をする人がいる可能性があります。これに対して著者は、そのあと、ハーツフェルドの言葉を通じ、「ビルは、プログラミングができないことをもってスティーブを下に見ていました」と「ジョブズはプログラムできない」としています。あとを読めばわかるのだから前は「熟達」にしてもいいという考え方もありますが、あとにそう書かれていることの信号をここで出しておくほうがいいと私は考えました。

ただ、習得した内容はコンピュータプログラムよりもコンピュータプログラミングのほうがいいですね。そちらはついでに直しておきます。

上巻 p.293
訳文:とある女性
原文:women
疑問点:「とある女性」というのは、「誰とは特定できないが1人の女性」のことを指すのではないのか。

おっしゃるとおりです。ここはヒューマンエラーというか、単純ミスというか、です。

もとの訳稿は「ジョブズも女性に焦がれていた」となっていました。初校時、編集さんから「とある」を入れる提案がされていて、それでは意味が違うと削除したのですが、ファイルへの反映時にミスがあったようです。通常なら2校で確認できるのでそのようなミスの有無を確認できるのですが、今回は米国側の発売前倒しにより2校がなくなったため、確認できずに残ってしまったようです。直しておきます。

なお、どういう理由であれ、最終的にミスのある形で世の中に出たものは私の責任です。編集さんが悪いと言っているわけではないので、そのあたり、誤解のないようにお願いします。第1の読者である編集さんのおかげでよくなった部分もたくさんあるわけで、そこのクレジットは翻訳者がもらっておいてマイナスの責任は編集さんにかぶせるというのではダブルスタンダードになってしまいます。

上巻 p.363
訳文:この緑
すごくいいグリーン
疑問点:なぜ「緑」と「グリーン」とに訳し分けたのか。

理由があってわざと変えています。そこから読者に感じてほしいと思うニュアンスがあったからですが、それが伝わる人も伝わらない人もいるでしょう。文章というのはそういうものですから。

解説は……やめることにしました。いったんは書いたのですが。ニュアンスが伝わった人にはいまさらでしょうし、ニュアンスが伝わらなかった人は解説されてもおもしろくもなにもないでしょう。だいたい、ここ以外にもさまざまな形でさまざまなニュアンスを込めて書いているわけで、正直、そのすべてがすべての人に伝わるとも思っていません。伝わるどころか、込めたつもりのニュアンスと異なる読み方をする人も当然にいるわけですから。だからといって、ここはこう読むべきと私の意図を押しつけるのが正しいのかと言えば、こういう本の場合、そういうものでもないでしょう。翻訳物にせよ、日本人作家が書いた小説などにせよ、モノを書いて読んでもらうとはそういう行為なのだと思います。

上巻 p.371
訳文:『スター・ウォーズ』の前半三部作
原文:his first Star Wars trilogy
疑問点:(全六部作の後半三部作と成る)「最初に作った三部作」ではないのか。

『スター・ウォーズ』は制作時期と六部作という映画全体の時系列とで時間が前後するのでややこしいんですよね。

映画『スター・ウォーズ』は全部観ていますし、DVDも持っているのでこのあたりがややこしいことはよくわかっています。

おっしゃるとおり、意味的には制作時期でいう「前半三部作」、物語の後半三部作です。また、原文のここだけを取り出してすなおに訳せば「最初に作った三部作」となります。しかし、その内容を訳文に落とし込む段階になるといろいろな問題があり、最終的にいまの形になっています。

ここ、訳文をもう少し長く引っぱってくると(↓)のようになります。

「このころルーカスは、『スター・ウォーズ』の前半三部作を完成させたところだったが離婚でもめており、……」

この「前半三部作」の部分に「最初に作った」と動詞を入れてしまうと、「『スター・ウォーズ』の最初に作った三部作を完成させたところ」というおかしな文になってしまいます。「作った」と「完成させた」がバッティングするので(同じことを言っているので、「『スター・ウォーズ』の最初に作った三部作を作ったところ」に等しい)、語順を入れ替えたくらいではどうにもなりません。そして、この文は後ろとの関係でルーカスにフォーカスを当てたいので、「完成させたところ」のほうは残さざるを得ません。つまり、「作った」を削るしかなくなります。ところが、この「作った」を削ると「最初の三部作」となってしまい、制作時期で最初なのか物語の時系列で最初なのかよくわからなくなってしまいます。

このあたりを明確化しようと"his"を訳出し、「彼にとって最初の『スター・ウォーズ』三部作」みたいにすると、今度は、ルーカス以外にとって最初の『スター・ウォーズ』三部作とかルーカス以外にとって2番目の『スター・ウォーズ』三部作とかが言外に示唆されてしまい、これまたおかしくなります。

このあたりを避ける方法としては、状況説明(『スター・ウォーズ』の説明)からはいる手があります。ただその場合、「『スター・ウォーズ』は1期三部作、2期三部作の全六部作だが、このころルーカスは、その1期を完成させたところで……」などとどうやってもかなり説明的になってしまう上、文の頭で『スター・ウォーズ』にフォーカスがあたってしまい、前後とのつながりが悪くなります。

結局、説明的になったりつながりが悪くなったりといったマイナスがあってもなお出すべき情報なのか、それとも、多少、誤読する人があってもいいからさらっと流したほうがいいのかの判断になります。そして、結論から言えば、私は後者だと思ったわけです。

何年という話が出ているので、事実関係を知ろうと思った人は十分に確認可能です。リアルタイムで『スター・ウォーズ』を観ていた人は、1985年という数字から、これが制作時期が早いほうの三部作を指していることがわかるはずです。『スター・ウォーズ』についてよく知らない人、それこそ見たこともない人にとっては、この三部作がどちらの三部作であってもさしたる意味を持ちません。本書における『スター・ウォーズ』の扱いはその程度でしかないからです。本書で『スター・ウォーズ』が取りあげられているのは、それがジョン・ラセターがルーカスのところにいた理由であるから、そして、それが結局、コンピューター部門の売却に伴ってラセターとジョブズが出会った遠因となったからでしょう。逆に言えば、それ以外はほかにマイナスを及ぼしてまで出さなくていい情報であり、『スター・ウォーズ』のややこしさは日本語で書き起こしていたら出さずに終わったであろう情報だと思うわけです。

そんなこんなを考えてくると、とりあえず、「このころルーカスは、『スター・ウォーズ』の最初の三部作を完成させたところだったが離婚でもめており、……」という形に落ちつくわけですが、この状態で気になることがもう2点、あります。

ひとつは「『スター・ウォーズ』の最初の三部作」と「の」が2回連続している点。2回くらいはかまわないと言えばそうなのですが、無理なくなくせるならなくしたいところです。

もうひとつはもっと重要で、「最初の」と来たら、そのあとに「2番目の」……「最後の」と続くことが想起される点です。でも、『スター・ウォーズ』三部作はふたつしかありません。つまり、最初の次は最後なのです(←日本語として、最初と最後しかないのは語感として変です。言わなくはありませんが、冗談のネタに使えるくらいには変です)。また、全体で三部作×2の六部作という造りなわけで、ここで言う三部作は全体の半分にあたります。だから「前半」としたわけです。

上巻 p.401
訳文:冷たいサラダのあとの温かな許し、度を過ごしたのは、閉ざされていた部分が開かれたことを意味します。
疑問点:意味がわかりません。

わかりにくいだろうなとは思います。訳した時点でわかりにくいと言われるだろうと予想もしましたし、実際、編集作業中、講談社の編集さんから「わかりにくい」との指摘もありました。その上でなお、ここはママにしたいと思い、残したものです。

古本一番堂さんは原著と突きあわせながら読んでおられるらしいですし、ほかでは「こういうことではないのか」と書かれているのに、ここはなぜか、「意味がわかりません」としか書かれていません。おそらく、英語を読んでも意味がおわかりにならなかったのではないかと思われます。でも原著のこの部分、英語自体は難しくありません。日本でも高校なら確実、下手すれば中学でも出てくるんじゃないかと思うような単語ばかりの簡単な文です("the excess, the permission and warmth after the cold salads, meant a once inaccessible space had opened")。

結局、ここは原著の英語も文脈依存でわかる人にはわかるし、わからない人にはわからないになっているわけで、日本語版でかみ砕いて説明するような訳にするのはよくないと思い、上記のような訳のママにしてあります。

解説するのはやめておきます。ジョブズとリサの性格、そこまでのふたりの人生、ふたりの間に横たわる経緯などを想いながら、リサが何を言いたかったのかを想像していただくべきところだと考えますので。

下巻 p.80
訳文:失神ゲーム
原文:highfalutin
疑問点:なぜ「失神ゲーム」がこんなところに出てくるのか?

これは私のミスです。「我々は格好だけつけようとしているのではない」あたりに直しておきます。今回は米国から送られてきた原稿の形式や翻訳に使える期間などの関係から選んだ工程の関係からこういうミスがあり得ると思い(根本的にこういうミスが起きなくなる方法があるので、講談社を通じてそれを原著者にお願いもしたのですが却下されてしまいました)、注意していたはずなのですが、その網をすり抜けてしまったものがあったようです。失礼しました。

また、今さら誤用というつもりはないが「非常に」の意味で「とても」という言葉を使いすぎている。さらに、発言のほとんどを行換えしたうえで "he said" などを訳出していないことが多いため誰の発言かよくわからないことがしばしばである(これは編集上の大失敗だと思う)。

まず前半の「とても」について。

「今さら誤用というつもりはない」とされているのでおわかりだとは思いますが、「とても」に「非常に、たいへん」の意味があることは(そういう使い方をされるようになっていることは)広辞苑など大きな国語辞書にも載るくらい市民権を得ています(広辞苑は一つ前の第4版ですでに載っています。それ以上前は調べていません)。なので、私は特に制限せずに使っています。たしかに似たような意味合いの表現のなかでこれを一番多用しているようなので、多すぎて気になる人はいるかもしれませんが、そのあたりは好みの範疇でしょう。

なお、今回は幅広い読者を対象と考え、漢語系や書き言葉系の表現を減らし、和語系や話し言葉系を多用するようにしています。そうなると、「非常に」の意味を表すのがけっこう難儀でして。漢語系でも書き言葉系でもなく、かつ、くだけすぎない表現というのは意外なほど少ないのです。しかも英語というのは全体に大げさなので、ある程度は訳出時に整理するにせよ、この手の表現が必要な部分が多くなりがちです。「とても」を減らせばほかのものが増えてしまうわけで、あちらを立てればこちらが立たずになるというか、こうすればすべてOKという方法はないと思います。

次に、後半の"he said" などについて。

発言のほとんどを改行したうえで "he said" などを訳出していないことが多いのは(「誰それが言った」としたところやそれ以外の形に工夫したところもありますが、そのどちらもなしとしたところも確かにたくさんあります)、日本語で書かれた小説などが基本的にそういう形式だからです。書籍の翻訳というのは基本的に日本語版だけを読む人たちのためのものですから、日本語として一般に使われている形式に合わせられるところはなるべく合わせてあります。日本語で書かれた書籍がそういう形式となっているのにはそれなりの意味もあるからですし、読者にとって読み慣れた形式でもあるからです(翻訳書ばかりを読んでいる人にとっては別かもしれませんが)。

「誰それが言った」もそれ以外の形もなしとしたところは、内容や口調からわかるはずだと思ったところなのですが、それがわからなかったということであれば、それは書き手として私の技量が不足しているということであり、申し訳ありません。

■最後に

特に長々と書いた部分など、ホントにこんなこと考えてるのか、後付けで言い訳しているだけなんじゃないかと思われる方もおられるかもしれません。まあ、そう思われる方には思っていただいて別にかまいませんが……瞬間的な検討ではありますし、細かく言語化しているわけでもありませんが、実際、そういうことを考えながら訳しています(考えて訳した部分というのは、ふり返ったとき、何をどう考えたのか、かなりよみがえってきます)。あれこれと細かく考えた方がさまざまなフィードバックが働いて解釈ミスなども減りますし。

と言いつつ、今回、なにをどう勘違いしたのかと自分でもびっくりするようなミスを2件、残してしまいました(上記の2番目と3番目)。いずれも、まちがえるはずがないようなまちがいなのですが、ミスってしまうときというのは、えてしてそういうものなんですよね。だから、「解釈ミスなども減りますし」としか書けず、「なくなる」とは書けないわけなんですが。

最後にもう一度、ご迷惑をおかけした読者のみなさまには深くお詫び申しあげます。

|

« 『スティーブジョブズⅠ・Ⅱ』の翻訳について-その6 | トップページ | アメリカで禅体験 »

書籍-著書・訳書」カテゴリの記事

翻訳-出版」カテゴリの記事

コメント

えっと、本質的じゃないところに茶々入れするみたいになって申し訳ないんですが……。

> 広辞苑は一つ前の第4版で

広辞苑は2008年に第六版が出ているので、第4版であれば「2つ前」じゃないでしょうか。

投稿: M_ohkoshi | 2011年11月 9日 (水) 18時14分

あらら(^^;)

第5版は買ったんですが、6版は気づいてなくて。そんなことじゃいかんですね。いま、見てみたら、ちゃんとEPWING版も出ているじゃないですか>第6版

ぽちっとしてきました。

投稿: Buckeye | 2011年11月 9日 (水) 18時31分

この記事を投稿したのが16時すぎで、そのちょっとあと、疑問点列挙のアマゾンカスタマーレビューに対するコメントとしてこちらのサイトを紹介したところ、夕飯前の18時ごろには当該カスタマーレビューがなくなっていました。「誤訳じゃないの?」と疑問を列挙した元発言がなくなってしまったわけで、この記事を削除すれば恥をさらさなくてすむ……はずなんですが、あえて残すことにしました。

隠してもミスったことは消えませんし、ミスを隠そうとしはじめれば、ミスをしないように努力するより隠蔽に流れてしまいそうに思いますから。自分が弱いとわかっているだけに、変な方向に進みそうなことは避けたいなと。ミスったところを読まれた読者に迷惑をかけたわけだし、そういう人たちへのお詫びとして、今後、さらに精進すべしと自分に釘を刺す意味でも、逃げるようなことはすべきじゃないだろうと。

よくも悪くも自分が書くことには責任を持つべしという基本的なポリシーに照らしても、いったん書いたことをごまかせるんじゃないかと削除するのはおかしいですし。

恥をさらしたくなければ、そういう失敗をしないようにするしかないってことですね。

投稿: Buckeye | 2011年11月 9日 (水) 21時37分

"He was short and he had been passed over for the top marketing job at Intel"
「彼はチビだったし、インテルではマーケティング部門のトップになれなかった」のほうが正しいとされていますが、 he was shortは(彼の)性格がぶっきらぼうとか、短気であるとか、そういう意味合いでは?
例えば、He is sharpと言えば、シャープな体型な男という意味ではなく、
頭がさえる、キレる男という意味合いの様に。
前後の文脈を読んでいないので、見当違かもしれませんが、
マーケティングのトップになる事と、身長の関係性はあまりに唐突な気がします。

投稿: 通りすがり | 2011年11月10日 (木) 12時14分

Twitterから拝見してます。
翻訳家さんの生の声とても貴重な記事で、そこになんか性もないコメントですが、
「スターウォーズの前半の三部作~」
は、
「スターウォーズの初期三部作~」
とかどうでしょう。
そこだけ引っかかるのも、スターウォーズの成せる業なんでしょうね……。笑

投稿: 通りすがり | 2011年11月10日 (木) 15時43分

内容拝見しました。
所々で「訳に問題がある」「雑だ」というような意見をみて、
(アマゾンの例のレビューへの反対意見もありました)
英語が出来ない私からすると
この人からの伝言ゲームは正確なのだろうか?
と、日本語版を読む事をためらっていましたが、
この記事を拝見して、考え方に大変共感できる部分があり、
購入する事に決めました。
これからもご活躍期待しております。

投稿: 拝見しました | 2011年11月10日 (木) 16時08分

スター・ウォーズはもともと3部作×3で企画された作品です。「最後の3部作」エピソード7〜9は結局製作されませんでした。今でも「最後の3部作」を待っているファンは少なくないと思います。原著者がoriginal trilogyではなくfirst trilogyと書いているのは、そういうことかもしれません。というわけで、「最初の」が適切であると思います。
関連: http://en.wikipedia.org/wiki/Star_Wars_sequel_trilogy

投稿: こじま | 2011年11月10日 (木) 19時10分

スターウォーズシリーズは日本では最初のエピソード4〜6の方を旧3部作、最近?のエピソード1〜3を新3部作と使い分けてる事が多いように思いますが、その表記では如何でしょうか?

投稿: d6rkaiz | 2011年11月10日 (木) 19時37分

うわ、1日外出しているあいだにこのブログとしては破格にたくさんのコメントが……

>通りすがりさん、

"short"について、別解釈が可能かどうかの検討は、いましている時間がないので後回しにしますが、とりあえず、この"He"であるMike Markkulaがわりに背が低かった、少なくともジョブズよりもかなり低かったというのは確かなようです(↓)。
http://surejpjohn.com/2011/08/apple-my-favorite-brand/

  (↑)"short"がまちがいとはかぎらないという証拠であって、
  別解釈が可能でそちらのほうがいいという可能性を排除する
  ものではありません。

>『スター・ウォーズ』関連のコメントをくださったみなさん、

現実と物語で時系列がややこしくなっている上、『スター・ウォーズ』は熱狂的なファンがたくさんいる映画なので、いろいろと気になる人が多いというのはあると思います。ちなみに私はなんちゃってレベルで、DVDは全部持っているし、子どもたちが好きなこともあって複数回見ていますが、それ以上の思い入れはありません。なので、いわゆるファンレベルなら常識とされることで知らないことがたくさんあるはずです。

『スター・ウォーズ』がもともと3部作3セットの予定だったというのも、私は初耳です。『スター・ウォーズ』がもっと大きく取りあげられている書籍を訳していたなら関連情報を調べているうちにどこかでみつけていただろうとは思いますが。

いろいろとご提案もいただいていますし、それぞれに一理ある話だとも思いますので、あとで再検討し(一昨日、この記事を書くのにかなり時間を使ってしまったこともあり、これから何日か、あまり時間的余裕がないので……)、直したほうがいいと判断すればそこも直すようにします。

いろいろありがとうございます>みなさま

投稿: Buckeye | 2011年11月11日 (金) 09時52分

「冷たいサラダのあとの温かな許し、度を過ごしたのは、閉ざされていた部分が開かれたことを意味します。」の部分

原文は意味がよく分からないとはいえ文法的に正しい英語になってます(しかも詩的な美しさがある)が,翻訳は日本語になってません.

しかも,おそらくafter cool saladが修飾しているものを誤魔化す(気持ちは分かります)ために語順を変えたのでしょうが,そのことによって意味的にも誤訳になってると思います.

投稿: まーー | 2011年11月11日 (金) 09時59分

今、スティーブ・ジョブズ読んでいます。
英語が苦手なので、訳書を読むだけですが、翻訳って、ただ訳すだけではないんだなぁ~と、感激しました。
寿司屋の件など、原典と事実の確認をするといったことは、校閲的な作業にもかかわってくるのだな、と感心しきりです。
とりあえず、このエントリーを読んで、翻訳者の方が自ら誤りと認められている部分については、「誤りがあった場所だな」との認識で、読み解いていきたいと思います。
まだ上巻の途中なので、もうしばらく、じっくり楽しませてもらいます。

投稿: 通りすがり2 | 2011年11月11日 (金) 11時18分

まーーさん、

>しかも,おそらくafter cool saladが修飾しているものを
>誤魔化す(気持ちは分かります)ために語順を変えたのでしょうが

"after the cold salads"が修飾しているのは"the permission and warmth"ですよ。"the excess"と"the permission and warmth after the cold salads"は同格というか、前者を展開したものが後者ですから。

語順を変えたのは、単純に挿入句とするとつながりが悪いからです。とりあえず、現状と同じパーツで英語の語順に従うと、(↓)のいずれかでしょう。(「-」はダーシ)

度を過ごしたのは-冷たいサラダのあとの温かな許し-閉ざされていた部分が開かれたことを意味します
度を過ごしたの-冷たいサラダのあとの温かな許し-は閉ざされていた部分が開かれたことを意味します
度を過ごした-冷たいサラダのあとの温かな許し-は閉ざされていた部分が開かれたことを意味します
度を過ごしたのは-冷たいサラダのあとの温かな許しは-閉ざされていた部分が開かれたことを意味します

最初は「温かな許し」の後ろに助詞がなくなってしまいます。2番目は「度を過ごしたの-」がおかしい。3番目はそれなりですが、ここから挿入部分をのぞくと「度を過ごしたは」となって厳密にはおかしいことになってしまいます。4番目は、文法的には問題ありませんが、ここで助詞まで両方に書くのはあまりしたくないなぁと思います。日本語としてのテンポがよくないので。

そう考えてきて、(↓)のように語順を変えたほうがいいと思ったのです。

冷たいサラダのあとの温かな許し-度を過ごしたのは、閉ざされていた部分が開かれたことを意味します

ここまで来たあと、ちょっと不思議な雰囲気を出したくて、あえて冒険し、ダーシをテンにしてみたのですが(「日本語になっていない」という指摘はそのとおりだと思います。わざと崩していますから)、どうもこの一文がとても気になる人が多いらしいことを見ると、その前でやめておけばよかったのかもしれません。テンポがどうとか言って語順を変えたあと、最終的にそのあたりを崩しているわけで、矛盾していると言われればそのとおりでもありますし。

投稿: Buckeye | 2011年11月11日 (金) 14時22分

素朴な疑問なんですが、原作者に確認する方が正確だし早いのではないでしょうか。

投稿: Joe | 2011年11月11日 (金) 21時17分

「冷たいサラダ」追記です。

当該部分の原文はネットで確認できましたが、日本語訳は確認
できておらず、問題の一文の前後の訳文を読んでいない状態で
先ほどのコメントを書いたのは軽率だったかもしれません。

前の部分で、たとえばあとに出てくる「度を過ごす」が何を意味する
のか読者にわかるような翻訳をされているのなら、問題ないですよね。

先ほどの私の解釈が合っていたとしても、何も「穴子」の説明を
前面に出して訳す必要もないし("warmth"にしても「穴子が温かかった」
ことではなく「父親の、もしくはふたりのあいだの温かさ」を言いたいの
だろうし)、「穴子」という言葉さえ使う必要もないのはもちろんです。
複雑な親子関係を示唆する、抽象的な訳語でいいと思います。
「冷たいサラダ」という言葉で、実際の冷たいサラダと、冷たい親子
関係を表している(のですよね?)ように。

ただ、もしも前の部分で何のヒントもなく、突然あの一文が出てくる
なら、やはり意味不明、不親切かなと思います。
シチュエーションからして、文脈依存でわかる人にはわかる、読者が
想像すべきところとは思えないからです。

投稿: ボブ | 2011年11月12日 (土) 16時17分

リンクを貼り付けたせいで、先に送ったほうが受け付けられて
いなかったようです。
読み直すとかなりはずしているとこもあるのですが、とりあえず
そのままで、リンクを削除して再送します。
**********************************************

Buckeye様

壮絶なスケジュールのなかからよく生還されましたね。
読んでいるだけで呼吸困難になりそうでした。
ほんとうにお疲れ様でした。

私は原書も邦訳も未読で、ジョブズに関する知識もあまりないので、
的外れだったら、あるいはBuckeyeさんがすでにご承知のうえでの
訳出だったのなら、申し訳ありません。

「冷たいサラダのあとの温かな許し、度を過ごしたのは、閉ざされていた
部分が開かれたことを意味します。」の部分について。

引用元と思われるリサのエッセイ"LISA BRENNAN-JOBS : ESSAYS"の
"I didn't live with him"以下を読むと、
具体的な意味がわかるように思います。


"the excess,the permission and warmth"は直前の"those trays of
meat"(大量の穴子寿司)が象徴するものというか、そのものズバリというか、
次のようなことを指しているようです。

・the excess -- とうてい食べきれないほどの穴子寿司を注文したこと。

・the permission -- これはよくわからないのですが、少なくとも
エッセイでは、ヴィーガンのジョブズが魚肉を食べることを娘に許したように
読めるかな? ジョブズが穴子好きだとも、彼も食べたとも(一応、主語は
we ですが、はっきりとは)書かれていないので。

・warmth -- これは、穴子が温かかったとはっきり書か れています。

もちろん、"permission"と"warmth"には、ふたりの関係を表す象徴的な
意味での「許し」「温かさ」が含まれていると思います。

厳格な菜食主義者で家族にも"cold salads"的な食事を強いてきた
ジョブズのこの行動で、リサは冷淡だった父親に近づけたような気分になった、
ということでしょうか。

以上を考慮すると、この文章はとくに詩的表現を狙ったものでもなく、
わかる人だけがわかるものでもないと思います。
ただ、この解釈が正しいとしても、こういった背景を訳文でどの程度、どの
ように説明するかはむずかしいですね。

投稿: ボブ | 2011年11月12日 (土) 16時30分

Joeさん、

どの部分について言われているのかわかりませんが、原作者に確認すればある意味、すべてOKというのは事実です。それこそ、こうしていろいろと突っこまれても、「原著者がそうだと言っている」と言えれば水戸黄門の印籠並みの威力がありますからね。

でも、いろいろな意味から、なんでもかんでも問い合わせるわけにはいきません。細かく書いているだけの時間がないので理由は割愛しますが……水戸黄門の印籠だって、番組1回に1回しか使わず、それ以外の小競り合いは印籠なしでどうにかするのと同じようなものだと思っていただければ。

投稿: Buckeye | 2011年11月13日 (日) 12時54分

ボブさん、

おっしゃること、どれもごもっともだと思います。ただ、今回、私がしているのは引用元の文章の翻訳ではなく、あくまで『Steve Jobs』という書籍の翻訳なのでいろいろとややこしい話があります。

この部分の『スティーブ・ジョブズ』原著における取り扱いは、概略、以下のようになっています。

まず、引用されているのは、"It was the first time I'd felt"から段落末尾までです。つまり、「食べきれないほど頼んだ」という部分はカットされています(地の文にもその情報は出てきません)。

逆に、直前、地の文に何点か、情報が追加されています。リサがそう思って引用部分を書いたという意味ではなく、あくまで著者が追加したものです。
・穴子はジョブズの好物で、これだけはベジタリアン側に入れている
・温かい穴子が口のなかで崩れる感覚をリサはのちのちまで覚えていた
・「穴子と一緒にふたりの距離も崩れていった」

この最後の一文のあと、引用部分があってこのエピソードはおしまいです。

その他、関連のことは(↓)のようになっています。
・スープをはき出した件は少し前に紹介されている
・引用元で出ているサラダの話はどこにも出てこない

>ただ、もしも前の部分で何のヒントもなく、突然あの一文が出てくる
>なら、やはり意味不明、不親切かなと思います。

不親切かと言えば、不親切だと私も思います。でも、そういう意味では、原著が不親切なんです。これが米国では常識の何かを前提にしている部分で、英語で読めば不親切ではないのに日本語にそのまま訳すと不親切になるのならそのギャップを埋めるのは翻訳者の仕事なのですが(ちょこちょこ補足しています)、今回のように英語で読んでも不親切なものは、著者の代弁者である翻訳者がいろいろと補足するのは基本的によくないと思います。

引用は部分を切り出すため、意図的かたまたまかなど、原因はさまざまですが、もともとの文脈とは異なる意味合いに取れてしまうことがよくあります。場合によっては正反対の意味になることさえあるほどで。たとえばそのような場合、引用元では逆の意味だからと著者の文章とは逆の意味にわざわざ補足するのがいいことなのか、著者の代弁者である翻訳者のすべきことなのか……そういう話になるわけです。

私としては、英語を読んだ読者が受けとるモノと等価のモノを訳文だけを読んだ読者が受けとるのが翻訳の理想であり、その理想に近づくべく翻訳者は努力すべきだと思っています。

今回の引用部分について言えば、引用元でどうなっているかは参考情報とはなりますが、最終的には、それを引用した原著がどうなっているのかに従って訳すべきだろうと思います。そして、原著側での流れ(直前だけでなく、書籍全体も含む流れ)からすると、あんな感じの訳文がいいんじゃないかと思ったわけです。

  まあ、原著の場合、「よくわからない」という第一印象のあと、
  読者は「これは何が言いたいのだろう」としか考えないであろ
  うのに対し、翻訳版だと、「翻訳がおかしいのではないか」
  「原著はどうなっているのか」と考える人が少なくないという
  具合に、読まれ方がどうしても違ってしまうという問題もある
  んですけどね。

投稿: Buckeye | 2011年11月13日 (日) 12時57分

Buckeye様

原書、訳書ともに未読、しかも釈迦に説法のようなコメントに、丁寧な
お返事をありがとうございます。

どのような意図であの一文を訳されたのか、よくわかりました。

訳者だけが知る背景情報を訳文にどの程度反映させるかは、いろんな
要素で決まりますね。

私はどちらかというと、親切に走りすぎるほうです(反省)。
だから、引用元のエッセイから自分が得た情報 ――件の3語が表す
「温かい食べ物」が「ふんだんに」ある食卓が「許可」されない食生活と
それが象徴する親子関係の抑圧感というか閉塞感が、続く
"a once inaccessible space had opened"でパーンと打ち破られた
(と私は解釈しています)ことが伝わる訳文にすべきではないかと
思ったわけです。

しかしこの場合は、おっしゃるように原文自体がリサの文章を不親切に
切り取ったものなので、よけいな説明はつけるべきではないのでしょう。

それと、私の文学的センスのなさを露呈してしまったことがひとつ。
「詩的表現ではない」などと書きましたが、文科系の英語ネイティブ1名に
よると、あの一文だけで「強烈なインパクトのある詩」になっているとのこと。
まーーさんのおっしゃるとおりだったのですね。
それなら尚更、原文を尊重した簡潔な日本語にする必要がありますね。

>私としては、英語を読んだ読者が受けとるモノと等価のモノを訳文だけを読んだ読者が
>受けとるのが翻訳の理想であり、その理想に近づくべく翻訳者は努力すべきだと思って
>います。

まったくそのとおりだと思います。
その視点で原文と訳文を比較して感じたことがいくつかあります。

リサのエッセイを読んだ私には、"after the cold salads"は、べつに穴子の
前に冷たいサラダを食べたわけではないことがわかります。
この温かい外食のあと、"We went back home to salads."と書かれて
いますし。
読者にはそれがわからないわけですが、"salads"と複数形になっているので、
その場の食事ではなく日頃の食生活を示唆していることが、英語版の読者には
ぼんやりとでもわかるであろうこと。

また、「温かな許し」という表現を目にした日本人読者の多くは、おそらく
"forgiveness"のほうの「許し」を思い浮かべるだろうが、英語版読者には
"permission"、つまり何かをするのを許可するという意味での許しだとはっきり
わかること。

つまり、抽象的で詩的な文章であっても、何が書かれているのかという
核心に近づくチャンスは、英語版読者のほうが何パーセントか多く手に
している印象を受けるのです。
そのへんは少し親切でもよかったかな、と。

もちろん、言うは易し、です。

投稿: ボブ | 2011年11月14日 (月) 13時35分

> 演技力

ご自分でも書いていますが、演出力でしょう。演技力だと、嘘をつく能力のように見えます。

投稿: ponta | 2011年11月17日 (木) 11時10分

ボブさん、

>つまり、抽象的で詩的な文章であっても、何が書かれているのかという
>核心に近づくチャンスは、英語版読者のほうが何パーセントか多く手に
>している印象を受けるのです。

英語読者にしてもさらっとわかるものではなく、しばらく考えてようやくわかるものなので、似たり寄ったりなんじゃないかと私は思います。ただ、おっしゃるような可能性はあるかもしれませんし、少なくとも、そういう状況ではないと明確に否定できる話ではないでしょう。

私が単に英語を読むスピードは分速200~300ワードなんですが、わずか数十ワードのこの一節には分単位で時間を使いました。正直なところ、一読しただけでは何が言いたいのかよくわからなかったので。

投稿: Buckeye | 2011年11月18日 (金) 18時21分

井口様
本書は少しずつ、食事の時などに読み進めていまして、今、下巻の真ん中を過ぎた辺りです。(単行本を買った後に、まとめて読む時間がないことに気付き、電子書籍で上下巻とも買い直し、そちらで読んでおります)
私は英語は出来ませんが、映像の仕事に関わっているため、この一連のブログエントリを読ませて頂いて、日本の読者に届けるための原著に対するアプローチとご苦労(であり仕事をする上での楽しみ)は、私が原作物を映像化する際に視聴者に何かを伝える作業と同じようで、共感出来る所が多々ありました。
実際、非常にドラマチックで且つ、絵がありありと思い浮かぶような記述は、原著の面白さもさることながら、井口さんのお仕事の歯車がうまく嵌まっていたからと感じています。

その上で2点ほど、コメントを残しておきたい気持ちになりましたので、以下、少々長いですが失礼させて頂きます。

>発言のほとんどを行換えしたうえで "he said" などを訳出していない

の件ですが、ほとんどの部分ではすんなり読めましたが、勢いで読み進めていると誰の発言か一瞬戸惑い、前のページに戻って読み返す、などはちょこちょこありました。ただし、読み返して分からない所はなかったです。

もう1点はスターウォーズの件。
ここはあまり厳密にならずに、さらっと読み流せるようになっているべき、と言う井口さんの主張には全面的に同意した上で、件の訳は通りすがりさんの
>「スターウォーズの初期三部作~」
がしっくり来るように思いました。「前半」と言うと、製作時期と物語上の時制と両方にかかってしまいますが、「初期」であれば製作時期に近いニュアンスになるように思います。

そしてこじまさんの
>もともと3部作×3で企画された作品
と言うのは、いささか正確ではありません。当初は初期3部作(エピソード4-6)のみで企画されたもので、9部作と言うのは、エピソード4(最初のスターウォーズ)のヒットに気を良くしたルーカスが調子に乗って、全9本の壮大なサーガなんだ、と発言したことに端を発しています。公開当時、確か私は中学生でしたが、スターログ創刊号か何か、公開後に決まった企画としてではなく、独断で発言した旨の記事を読んだ記憶があります。
エピソード1-3の公開時に、これでスターウォーズサーガは完結した、と言い直しているのは、初期3部作公開当時に明確な構想があったわけではなかったためと、個人的には感じております。
ほぼすべての権利をルーカスフィルムが独占しているので、この先、エピソード7-9が作られる可能性はなくはないでしょうが、9部作が本来、と言うことではないと思います。
まあ、最後のは本書にとってはどうでも良いことですが、ちょっと気になったもので……。

大変に売れてる本でもありますし、熱狂的な支持者の多い人物について書かれた本でもあり、何かと気苦労がおありかと存じますが、陰ながら今後もご健勝をお祈りしております。

投稿: t0mori | 2011年11月20日 (日) 21時23分

t0moriさん、

誰が言ったのかを明確に書かない件は、日本語で書かれた小説などでも、ときどき、「勢いで読み進めていると誰の発言か一瞬戸惑い、前のページに戻って読み返す」ことがあります。このあたりは、日本語で書かれた小説を読むとき常に気になってしまう点なので、ときどき戻って確認しないとわからないことを私が経験していることはまちがいないと断言できます。

そういう意味では、t0moriさんが書かれた状況は、私にとって狙いどおりが実現できたと言えることになります。

スターウォーズは……あの世界も深いですから、いろいろとややこしいですね。どうするのか、まだ決めていませんが、次の増刷があるようなら、そのときにでも決断したいと思います。

投稿: Buckeye | 2011年12月 7日 (水) 22時25分

英語ネイティブの翻訳チェックや、自ら英日の翻訳をしている者です。誤訳について調べていて行き当ったので拝見させていただいたのですが、
他の方のコメントにもあるように、わかりづらいとしても日本語として流れる(つまり、読者がそこでつまづかない)ように書くのが翻訳者の仕事では、と思います。
The excessを修辞しているのがthe permission and warmth after cold saladと解釈されているとのことですが、単純に"A, B and C"の語法に即してThe excessのあとにコンマが来ているのみで、むしろ"The excess, the permission and warmth"はひとつのかたまりと考えます。
ベジタリアンであるにもかかわらず穴子は食べても良い食物としていたことから、父娘関係にあった冷たい壁(cold salad)のようなものが溶解したことを婉曲的に表現し、冷たいサラダの後に出てきた肉に、私は父の人間らしさ(つまり、ベジタリアンであるのに「肉」を食べることを自身に許可したこと=excess and permission)を感じることができ、そのとき父との間にあった溝がなくなったような気がしたのです、という意味でしょう。
(もしもこれが誤訳や汲み取りすぎなどと言われるとしても、日本語としての意味が成立していないといわれることはないでしょう)
英語が分からない方には、翻訳者の書いた文章だけが頼りです。どんなに訳しづらい文章でも、最後には「流れる翻訳」「読者がつまづかない文章」を書くことが大事ではないのでしょうか。。。これでは機械翻訳と誰もが思ってしまい、翻訳という職業そのものに対する冒涜とも捉えかねません。

投稿: november | 2013年2月28日 (木) 12時03分

novemberさん、

解釈はいろいろとありうるわけで、私の解釈が唯一というつもりはありません。それこそ、元の文章を書いた作家さんが思いもしなかった解釈を読者がするということさえ珍しくないというか、それが普通というほどよくあるわけですし。

novemberさんのように解釈するとした場合、よくわからない点があります。"the excess, the permission and warmth after the cold salads, meant a once inaccessible space had opened"と"warmth"に定冠詞がないこと、および、"salads"の後ろにカンマが入っていることはどう説明されるのでしょうか。もしよければ、お考えをお聞かせください。

「流れる翻訳」については……このブログを読んでいただければわかりますが、私は、訳文だけ読んで流れることを重視するタイプです。ですが、本文にも書いたように、ここだけはあえて流れる文章にしないほうがいいと判断しました。こういう判断をしたのは、翻訳の仕事をするようになって以来、ここだけなのではないかと思います。

「温かな許し」のあとのテン、ここをダーシにでもしておけば、もう少し日本語の構造がわかりやすくなったかもしれません。いや、いっそ、「温かな許し。」としたほうがわかりやすいと言えばわかりやすいかもしれません。そういう部分をテンにするのは、日本人の作家さんが書いたものでもみかける手法ではあるのですが。

投稿: Buckeye | 2013年2月28日 (木) 15時41分

井口様

お返事を書いてくださりありがとうございます。
この議論は2年も前のことだったのですね。仕事柄、翻訳をチェックする際に必ず誤訳をする訳者(その人の場合は、日本語から英語への翻訳で、日本語を正確に理解していないことが多いです)がいたために、これほど誤訳が多いとプロの翻訳家としては成り立たない(常にチェッカーが赤を入れる必要がある)と思い、いろいろと調べてこちらに行き当りました。コメントの後興味深くブログを拝見させていただきました。

ご質問のところですが、私としては全くひっかかりませんでした。"the excess, the permission and warmth after the cold salads"が主語のひとかたまりですよね。そして"after the cold salads"は"the excess, the permission and warmth"を修飾している(説明していると言いますか)ですよね。
saladsの後のコンマは、このように主語があまりに長い場合に読みやすいように打たれるものだと思っておりました。

他にも色々と争点がおありだったようですね。私は現在、訳出に苦労する悪文(ノンネイティブの書いた英語の学術論文です)に苦労していますが、悪文をそのまま悪文に訳して出版すると私自身の文章力、翻訳力に疑問符が打たれかねないので注意し、結果非常に時間がかかり苦労しています。そういった意味で、今回考える機会をいただき勝手にコメントさせていただきました。

以前、英語で名著と言われる哲学系の本の日本語版を読もうとしたら、あまりに日本語が理解不能で読みきれなかったもので、一般にもたれる翻訳版のイメージ「内容が変わっている、原文が透けて見える悪文」というのを払しょくしていただければと、勝手ながら願っております。

投稿: november | 2013年3月 1日 (金) 15時02分

novemberさん

"warmth"に定冠詞がないことについては、どうお考えなのでしょう。

投稿: Buckeye | 2013年3月 4日 (月) 16時12分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『スティーブジョブズⅠ・Ⅱ』-誤訳の指摘:

» 井口耕二氏のブログ [ミルトスの木かげで]
 今話題の『スティーブ・ジョブズ』の翻訳者、井口耕二氏のブログを読み、しびれた。こういう方を「プロの翻訳者」と言うのですよね。  あの大作を、3ヶ月間で一人で訳し上げた井口耕二氏ですが、アマゾンのカスタマーレビューに、誤訳を指摘してこられた方がいたそうで... [続きを読む]

受信: 2011年11月10日 (木) 04時37分

« 『スティーブジョブズⅠ・Ⅱ』の翻訳について-その6 | トップページ | アメリカで禅体験 »