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2011年7月23日 (土)

翻訳調の功罪

今日、日本通訳翻訳学会の「翻訳研究育成プロジェクト」で話を聞いてきました。目的は鴻巣友季子さんの「訳しにくさの正体」という講演。いろいろシュラバっていて講演会なんぞに行っていていいのか、仕事を少しでも進めるべきじゃないのかとも思うのですが、ちょうど、先日来、気になっている翻訳調と関係のある話が聞けるかもと無理を押して出ることにしました。

いろいろな話があったのですが、ここではひとつだけ取りあげます。

最後の質疑で、「翻訳があまりに日本語らしいと翻訳者が何か操作しているのだろうと思うので、違和感というかゴツゴツ感を残した翻訳のほうがいいという読者もいる」というような指摘が鴻巣さんからありました。質疑自体は、それに対して「そう思う読者と、翻訳だと意識させない翻訳のほうがいいと思う読者とどちらが多いと思うか」と私が突っ込んで紛糾したりしたんですが……ま、それは置いといて(^^;)

こういう考え方があるというのは、私にとってかなり驚きでした。ゴツゴツした翻訳っぽいものをよく読む人だって、日本人作家が書いた本も読むはずで、そのとき、日本語らしい日本語に不満を持つことはないはずだから(文体が自分に合わないとかはあるでしょうが)日本語らしい日本語なら基本的に誰でもカバーできるのかなと思っていたからです。

そういう人がどのくらいいるのかは、今回の質疑では「わからない」という話しか出ませんでした。「どのくらいだと個人的に思うか」と聞くべきだったとあとから思いましたが、まあ、仕方ありませんね。

ともかく、そういう人がいる。どのくらいかはわからないけどゼロじゃない。それを前提としたら自分はどうすべきなのだろうと、帰宅する道々、考えてみました。で、当面の結論。

申し訳ないけど、そういう人は対象読者から外して考えます。私としては、日本語らしい日本語のほうがいいとしか思えないので。翻訳物の場合、文化的・内容的なざらつき感は必ず存在するわけで、それ以外の言語的ざらつき感、ゴツゴツ感が欲しい、原文の表現が透けるような訳文のほうが英語で書かれた本らしくていいと思うのなら、原文で読んでください。

質疑のなかで鴻巣さんから「最後は自分が読者としてどう思うか」という趣旨の一言があったりしましたが、結局はそういうことにしかならないんですよね。自分にとって許容範囲であれば、読者なり関係者の要求なりにあわせて調整しますけど、許容範囲をはずれてしまえばごめんなさいするしかありません。私はこういうやり方ですから、と。それがそれなりに受け入れられればOKですし、受け入れられなければ宗旨替えをするか消えてゆくかです。

そうそう、質疑では、このあと、産業系の翻訳をしている人から「産業系は『字面どおりに訳せ』という世界」という話がでたり、翻訳を教えているという人から「産業系は論理的な話が展開するので、それを詰めてゆけば誰が訳しても同じ訳文になるはず」という意見がでたりして……うーん、それは違うんじゃない?って思ってしまいました。で、駅までの帰り道で産業系のとある方から「産業系でそれとは違う考え方を主張する人はいるのか」と聞かれ、思わず「はい、ここに」と手を上げてしまったり。

マーケティング資料とかはもちろん、それこそ論文だって、言外の意味が存在するケースもあるわけで。がちがちの論文などのほうがずっと少なくはなるけど、ゼロにはならないという意味で。ゼロでないなら、そこを拾えるかどうかで翻訳の質は大きく異なるわけで。

でも、こういう考え方は少数派なんですよね……

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コメント

ああっと、そう言えば……今日のテーマは、どうも、「直訳と意訳」だったらしいです。その点に関しては、前に「誤解されやすい翻訳業界の常識-直訳 vs. 意訳」( http://buckeye.way-nifty.com/translator/2010/05/vs-c302.html )に思うところを書いていますが、そちらでの言い方をすれば、今日の「直訳」は「字面訳」に近いものだったように思います。まあ、訳しあげてくるのか直訳か頭から訳すのが直訳かみたいな言い方をする人もいて、そういう問題じゃないだろうと思ったりもしましたが。

投稿: Buckeye | 2011年7月23日 (土) 21時57分

いつも興味深い内容の文章を読ませて頂いております。

> 「産業系は論理的な話が展開するので、それを詰めてゆけば誰が訳しても同じ訳文になるはず」

という言葉には私も強い違和感を覚えます。そもそも原文が論理的で必ずしもある訳では無く、訳者が「論理的に破綻している」と指摘して、原文に修正が加えられることもあります (私の環境が特殊なのかも知れませんが..)。

> それこそ論文だって、言外の意味が存在するケースもある

と書かれていますが、論理を満足させる為の情報が原文に記されていない (原文を書いた人は「これくらい言わなくても分かるだろう」と思い省略している) 場合も時々目にすることがあります。こちらはどちらかと言うと「どれだけキッチリ書くか」という趣味の問題なのでしょうが..。

投稿: Kira | 2011年7月24日 (日) 03時42分

昨日のセミナーに参加したnaruseです。井口さんの(爆弾)発言でセミナーはだんぜん白熱しました。私にとってこれは「想定外」だったので、とてもよかったです。

「翻訳調は是か非か」論議については、鴻巣さんと井口さんは、いっけん正反対のスタンスをとっている(鴻巣さんは「翻訳調」派、井口さんは「反翻訳調」派)ようにみえて、じつは同じことをいっているのだと感じました。つまり「既存」の翻訳のあり方はよくない、だから変えていくのだ、と。ただし、その「既存」の翻訳のあり方が文芸翻訳の世界と実務翻訳の世界とでは、まったく異なっているようです。

いまの文芸翻訳の世界では、翻訳者は編集者からできるかぎり「こなれた」(=反翻訳調)の訳文が求められているのと、鴻巣さんはいっていました。つまり「日本語らしい日本語にすること」が、文芸翻訳業界での既存の翻訳のあり方です。それに対して鴻巣さんが主張していたのは、そうした方向性ばかりを追求すると、文学としての創造性が欠如していくのではないかということです。そして文芸翻訳に創造性を回復するためにも、敢えて翻訳調のごつごつ感を確信犯的に残しておくのもひとつの方法でないか、ということだと思います。少なくとも私はそう解釈しました。

一方、私も属する実務翻訳の世界では、現在でも翻訳調が主流です。学術翻訳書の日本語のほとんどはいまもあきらかに翻訳調ですね。井口さんのおっしゃりたいことは、おそらくそうした「日本語でない日本語」を実務翻訳の世界から駆逐したいということではないでしょうか。ところがなかなかそうはいかない。いまでも多くの実務翻訳が翻訳調(=日本語でない日本語)で占められている。そこで「でも、こういう考え方は少数派なんですよね……」という井口さんのコメントに行き着くのだと思います。

今回強く感じたのは、文芸翻訳と実務翻訳とのあいだの対話をいかに成り立たせるかは、じつは今後の翻訳の発展の鍵を握るのではないか、ということでした。その意味で、今回の一件は、まあかなり大げさにいえば、これからの発展の重要なマイルストンかもしれませんね。

投稿: narusey | 2011年7月24日 (日) 10時32分

翻訳調の訳文って、読む側に「耐性」のある人とない人、「嗜好」のある人とない人が、たしかにいますよね。私自身はあまり「耐性」も「嗜好」もないのですが、でもジャンルや文章の種類によっては「翻訳くささ」がうまく活きる世界もあるのかな、と漠然と思っています。

不躾な話で失礼ですが、Buckeye さんの訳本で言うと、ジョブズ・シリーズとか『マンガ 統計学入門』などは Buckeye さんのおっしゃる「日本語として自然な訳文」という方針が徹底されていると思いますが、『人間はガジェットではない』はかなり翻訳くさいと感じました。ただ、「ガジェット」はしばらく読んでいると、その翻訳くささがこの本に合っているかも、と思えなくもありませんでした(現著者の顔写真に影響されているかもw)。

それがちょっと不思議で、「もしかすると、自然な日本語にしようとするのがかなり大変な、クセスのある原文だったんじゃないか」と推測しています。

投稿: baldhatter | 2011年7月24日 (日) 10時46分

すいません、誤字。クセス → クセ

投稿: baldhatter | 2011年7月24日 (日) 11時29分

naruseさん、

コメント、ありがとうごさいます。

突っこんだほうが議論が盛りあがるので、ああいうときは基本的にそちら方向を取るのですが、今回は、ちょっと突っ込み方がよくなかったなぁと反省しております。っていうか、私の頭のなかがとっちらかったままだったので(^^;)

あのときのもろもろ、大まかにまとめるとnaruseさんに書いていただいたような話なのだろうと思います。どこに立っているかで状況はもちろん違いますし、見えているものも同じ言葉が何を意味するのかも違ってきますし。そのあたりで今回は行き違いになってしまったようです。

これはnaruseさんに申しあげるような話ではありませんが……文学としての創造性を翻訳物において翻訳調に求めるのは、これまた話が違うのではないかと私は思います。鴻巣さんが求められたという「読みやすい日本語」と「日本語らしい日本語」はベツモノなのではないかとも思うからです。「読みやすくすると文学としての創造性が失われる」というのなら、その「読みやすい日本語」とは「易しい日本語」を指しているのではないでしょうか。言い換えると、めざすべきは、「難しい表現や創造的な表現を使った日本語らしい日本語」なのではないかと。「翻訳調は、それが日本語として創造的な表現となる場合にのみ使うべき」というか。

ちなみに、少なくとも私は、訳すとき、「ここは読みやすく(易しく)するためにこうする」と思うところと、「ここは日本語らしい日本語にするためこうする」と思うところがあります。かたい文体かやわらかい文体かの調整などは、基本的に前者で行います。後者は、かたかろうがやわらかかろうが、いずれにせよ行う処理です。

投稿: Buckeye | 2011年7月25日 (月) 13時35分

baldhatterさん、

翻訳調に対する耐性と嗜好、たしかにありますね。私はおそらく、それらが極端に低いほうなんでしょう。

『人間はガジェットではない』はですねぇ……アレは私にとって2冊目の黒歴史だったりしまして……(訳書は基本的にここで紹介しているのに、アレを紹介していないのはそういう背景があったりします)。

あの本、たしかに、自然な日本語にしようとするのがかなり大変な、クセのある原文だったという面もありました。だから、あの分量の原著に通常かける期間の1.5倍は時間が欲しいと思ったのですが、逆に、通常の半分くらいしか時間がなくて。シリーズ最終刊だから発刊を遅らせるという選択肢はなく、そのスケジュールで出すか、あるいは、世に出さないかという選択だという話でした。結局、じっくり考えて訳すだけの時間がないから翻訳調がかなり強く残ったという結果的な話だったりします。これが、もともと翻訳調のほうがいいと判断してそうしたのなら、(人によって評価はいろいろであっても)それはそれでひとつのやり方だと思うのですが。

そんなわけで、あの条件ではあれが精一杯だったとは思うものの、自分の力を出し切ったと思えるものには仕上がっていないんです。昔書いたエントリー、「読むスピードで翻訳できれば最高の品質が得られる」( http://buckeye.way-nifty.com/translator/2005/07/post_05fe.html )の「ノーマルな速度範囲を逸脱するほど速くすると手抜きになって品質が落ちる」をやってしまったわけです。

投稿: Buckeye | 2011年7月25日 (月) 13時41分

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