翻訳フォーラム勉強会-"Philomel Cottage"を題材に
しばらく前の2011年4月15日、「河野一郎さんを迎えての勉強会」から派生した翻訳フォーラムの勉強会を行いました。
題材は「河野一郎さんを迎えての勉強会」で題材となった"Philomel Cottage"の冒頭で、事前に(↓)のようなことをしました。
- なるべく訳文を事前に提出してもらう
- それをまとめて参加者に配布(どれが誰の訳文なのかは、とりまとめてくれた人、1人しか知らない)
- 評価とその理由をなるべく提出してもらう
とりまとめをしてくれた人が住んでいるマンションの集会室を借り、プロジェクターやパソコン、ポケットWiFiなどを持ちよって、朝9時から夜8時ごろまでえんえんとあれやらこれやらの話をしました。
翻訳フォーラムですから、参加者は全員、産業系が主体の翻訳者です。産業翻訳と文芸翻訳はまったく別という考え方もありますが、私は、程度問題であって共通する部分が多いし、また、産業系で小さな違い、大きな違いを生む部分はその小さな違いが大きな違いとなりがちな他分野を題材にしたほうが把握しやすいのではないかと思ったりもします。
前半は原文の理解を深めるための周辺情報についての話が中心で、後半は、さまざまな部分の訳し方についての話が中心でした。時代の問題、著者がアガサ・クリスティーという女性であることの問題……いろいろな観点から検討を行いました。
お昼はおにぎりをほおばりながら話が続いていましたし、夕食もピザをつまみながら話が続いていたしで、結局、10時間以上、休憩らしい休憩なしにぶっとおしとなりました。
■提出された評価結果
事前に提出された評価結果は、(↓)でした。ちなみに、「A、B、Cが合格、Dが不合格」という大まかな基準で採点することとなっていました。理由は割愛します。
訳文1 | 訳文2 | 訳文3 | 訳文4 | 訳文5 | 訳文6 | 訳文7 | 訳文8 | 訳文9 | 訳文10 | |
評価1 | B+ | B+ | B- | C | D | A- | C- | B+ | B | B- |
評価2 | B | A | D+ | B | D- | C | D- | C | A | B |
評価3 | A | B | B | C | B | B | B | C | C | |
評価4 | D | B | A | A- | C | B | D | B | C | A- |
評価5 | D | C | D | D | D- | C | D | C | C | B |
いや~、いつもながら割れました。全般に辛い評価、全般に甘い評価があるので、そのあたりを差し引いて考えても、割れていますよね。それでも傾向というのはあって、訳文の2番、6番、10番あたりの評価が比較的高くて8番、9番がそれに続き、4番が微妙なところで、それ以外はよくないレベルに落ちるという感じでしょうか。
ただ、今回の勉強会で背景知識について勉強し、いろいろな評価のポイントを検討したあと、もう一度評価すると、また、違った評価が出てきそうです。そういう評価をしてみるといいと思いますし、そのようなポイントを押さえた上でもう一度訳文を作ってみるというのもいいと思います。やはり、1日だけではなく、間隔をおいて何日かを使う必要があるということなのでしょう。
■実験訳
ちなみにこのとき、私は、思いっきり実験的な訳を提出しました。具体的には、極力、主人公となるアリックスを中心として訳文としたのです。
英語の場合、神の視点というか、事実を客観的に述べるような形がとりやすいのに対し、日本語は用言中心でそこから想像される主格に人の影がちらつくため英語よりも登場人物の誰かにフォーカスした形になりやすいように感じているからです(←こういうことを気にしつつ、日本語の本を読んでいるのですが、まだ、確証をもってどうこう言えるところまできていません)。
もちろん、徹底的にやればそのほうがいいなんて話ではなく、このとき私が提出した訳文はやりすぎだと思います。やりすぎだから仕事でやるわけにはいかず、こういう勉強会のときにやってみたわけですが。
このような形で訳文を作った形式的な影響としては、アリックスやアリックスを表す「彼女」の登場回数が劇的に下がるという点があります。
原文には、Alixが15回、sheが14回、herselfが3回、herが21回の合計53回、アリックスが登場します。それに対し、各訳文には、アリックスが以下のように登場します。
訳文1 | 訳文2 | 訳文3 | 訳文4 | 訳文5 | 訳文6 | 訳文7 | 訳文8 | 訳文9 | 訳文10 | |
アリックス | 9 | 21 | 11 | 13 | 12 | 12 | 20 | 6 | 22 | 16 |
彼女 | 9 | 0 | 8 | 4 | 10 | 7 | 1 | 0 | 3 | 0 |
合計 | 18 | 21 | 19 | 17 | 22 | 19 | 21 | 6 | 25 | 16 |
普通に訳せば20回前後(16~25回)登場するものが、わずか6回まで減るわけです。これがいいか悪いかは別問題として、読んだときの印象が大きく変わることはまちがいありません。
私としては、英語が別人物を主語にたてているからその人物を主格にした訳文を作るというのは安易な思考放棄だと思いますし、逆に、今回提出したほど徹底的に書き換えてしまうのもおそらくはよくないのだと思います。
参加者からも、「これはベツモノ。この形のまま最後まで話をもってゆけるとは思えない」「やれないことはないのではないかと思うし、それができればこれはこれでアリ」など、さまざまな意見が出ました。
では、どのあたりでバランスさせるのがいいのか。それこそ、「日本人の作家ならどうするか」なのでしょう。
というわけで、この点についても、継続検討という以上にはなっておりません(^^;)
ちなみに、この勉強会後、Sakinoさんといろいろと話をして、このあたりを含めてもう少し突っこんで検討してみたらどうだろうかというアイデアが出ています。SakinoさんはSakinoさんで、私とはいろいろな意味で反対向きの実験訳を出していたりしましたし。
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コメント
<私としては、英語が別人物を主語にたてているからその人物を主格にした訳文を作るというのは安易な思考放棄だと思いますし
これは、妙な議論だと思います。というか、それこそ思考放棄なのでは?
つまり、《形式優先主義》ということです。
たとえば、どういう動詞を選ぶのか……だけでも、当該部分が「誰の目」「誰の声」のものとなるかが変わると思うからです。オノマトペの使い方でも変わってきますし。
なので、私は、徹底的に、英語の構文のままで、どれだけアリックス目線を出せるかというラインで訳文をつくってみました。私のアリックス登場回数21回のうち、いくつかは、そのまま削除可と思いますが、それはさておき、アリックス目線だけだったら、構文を変えなくてもニホン語で実現可能だと思いますよ。(変えたっていいんですが、変えないとアリックス目線を実現できないというのは、オオウソだと思います。)
やっぱり続編をやらないとダメかも^^;。
投稿: Sakino | 2011年5月 8日 (日) 18時52分
あと、ニホン語(今回英→日なので。実は英語も割合は別途要検討にせよそう)って、ダブル目線の部分が多いんだと思います。ダブルというのは、トリの目と登場人物の目のダブルとか、語り手の声と登場人物の目のダブルとか。あと、文の前半がトリで、後半が登場人物に寄っていくとかもある。
なのに、登場人物(だけ)目線に変えてしまうというのは、ニホン語オリジナルで書いたとした場合に選べた複数の表現のうちの、あえて選ばなかった表現を選択していることになってしまう可能性が高いということでは?
ニホン語の文章の丁寧な「目」と「耳」の分析が必要なんだと思うのだけれど。
投稿: Sakino | 2011年5月 8日 (日) 19時01分
> ニホン語の文章の丁寧な「目」と「耳」の分析が必要なんだと思うのだけれど。
はい、そうなんだと思います。
上記エントリーでも「こういうことを気にしつつ、日本語の本を読んでいるのですが、まだ、確証をもってどうこう言えるところまできていません」と書いていますが、そうやって日本語の本を読みながら、Sakinoさんが書かれたことを意識しているつもりなわけです。
ただ、ここ何年かやって結果が出ないので、それはつまり、物語りとか論説文を読みながら程度では結論が出せるほどの分析はできないということなのでしょう。この分析で十分な時間を使えるような状況になかったこともあり、そのくらいである程度の方向性が見えてくれればと思ったのですが。
で、そういう分析なしに「英語が別人物を主語にたてているからその人物を主格にした訳文を作る」というのは安易な思考放棄だと思うわけです。もちろん、そういう分析なしに誰かに統一してしまうというのも思考放棄だと思います。
投稿: Buckeye | 2011年5月 8日 (日) 19時45分
えっと2方向あると思うんですよ。
ひとつは分析。これは、私は、結構、見えてきた部分があると思います。これは、わりとアウトプットする機会を作って、ドリルとかを作って、いろんな人に試してもらったということもあるんですけど。
あと、アウトプットの一方で、人の分析内容を読んでいるということもあるのだと思います。シンクロニシティというのは確実にあって、同じようなことを考える人というのはいるものですから。
もう一つは、徹底した実験じゃないでしょうか。これは、文法学者が分析だけするのとちがって我々現場の人間ならでは。
期せずして、全然ちがう方向の実験を勉強会で翻訳フォーラムの主催者二人が、まったく打合せもなくやっていたというのがわかって、ずっこけました。
Buckeyeさんは、さっさと降りちゃって、勝手に変えちゃう方向での実験に邁進しているし、
私は、絶対変えるもんかと突っ張って、その中で、意地でも視点を適宜変えてやるぞと。(ついでに、あらゆる情を反映させようとしてしまったのは、「地」なのでしょうがないとして、人の文章を訳すというところではまずかった)
実験としては両方必要だと思います。(もっと他にもあるかも……ですが。)
でもって、徹底的に、ハウツーとして文法的に整理できるはず。
さらにいえば、同じ人間が、この両方で実験を重ねるべきだと思います。
そこから見えてくるものは大きいはず。そこで身に付くスキルも大きいはず。
(情報量の調整という別の要件はありますが、それは棚上げするとして。)
でもって、案件ごとにエイヤで思い切ることが大事で、その線に沿って処理するのではないでしょうか。
投稿: Sakino | 2011年5月 8日 (日) 22時36分