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2011年4月 9日 (土)

Stay Hungry. Stay Foolish.

スタンフォード大学の卒業式における祝辞でスティーブ・ジョブズが締めに使い、有名になった一言です。この一言、私は、「ハングリーであれ。分別くさくなるな。」と訳しています。この祝辞があったころ、ちょうど『スティーブ・ジョブズ-偶像復活』を訳していたところだったので、訳者あとがきでとりあげたのです。

「ハングリーであれ。馬鹿であれ。」という訳し方が広まっているようですが(ほかに「ハングリーであれ。愚かであれ」などもあります)、私としては、やはり、「分別くさくなるな」のほうがいいと思っています。

どうしてそう思うのか、何をどう考えて「分別くさくなるな」としたのかを簡単にまとめてみたいと思います。

この件についてはブログを別サイトで書いていたときに記事を書いた記憶があるのですが、今、サイト検索をしてもみつけることができません。移行時にトラブって消えてしまったのかもしれません。

今もまた、ジョブズが登場する書籍の翻訳を進めているのですが、当然ながら、そこにも"Stay Hungry. Stay Foolish."が登場します。それでこの話を思い出したのですが……それはまあ、置いておいて。この数年の状況の変化も考慮にいれ、改めて考えてみましたが、やはり「分別くさくなるな」だろうなぁと思います。悩ましいですけどね(悩ましくないことなんて、産業系も含めてほとんどありませんけど)。

■訳すときに注意すべきポイント

英語と日本語というのはまったく違う言語なので、何をどう訳しても、いろいろなところにズレが生じます。ある面のズレを小さくすると別の面のズレが大きくなったりするので、こうすればいいという道はありません。

まあともかく、検討すべき側面としては、意味内容のほか、価値観を含むニュアンス、形式(形式から感じるものもある)などが考えられます。

このあたりについては、「誤解されやすい翻訳業界の常識-直訳 vs. 意訳」などにも書いています。

●発話者が伝えようとした内容が、少しでも多くの人に正しく伝わるようにする

この翻訳で一番大事なのは、なんといってもこれです。そして、「馬鹿であれ」「愚かであれ」はここに問題があると思います。ジョブズは、知恵も知識もない馬鹿であること、低能であることを推奨しているのではありません。「若者は馬鹿者」などというときに使われる「馬鹿」……つまり、社会とか現実とかしがらみとか、そういうことなど無視して突っ走る若者らしさを持ちつづけろと言っているわけです。英語側で、似たような意味の単語がいくつもある中から"foolish"が選ばれたのも、それが常識のなさを意味するからでしょう。

というわけで、「ハングリーであれ。馬鹿であれ。」はないと思いますが、「ハングリーであれ。馬鹿者であれ。」ならアリかもしれません。

あとは、「馬鹿者」と言われたとき、無能・低能のばかと読んでしまう人と「若者らしさ」的な意味合いに読んでくれる人がどういう割合になるかという問題があります(「誤訳とは?」)。ネット上の用例では、「馬鹿者」のうち「若者は馬鹿者」として使われているのは約10%のようです。そのあたり、いろいろと検討すると、「若者は馬鹿者」などの形で使うならまだしも、単なる「馬鹿者」では無能・低能のばかと読まれてしまうおそれがけっこう高いのではないかと思います。

「ハングリーであれ。『馬鹿者』であれ。」あるいは「ハングリーであれ。バカモノであれ。」などとすれば、単なる馬鹿者ではなく、特殊な意味を持つんだよと示すことはできます。書き文字コミュニケーションでしか使えない手なので、祝辞というしゃべりの翻訳に使うのはあまりよくないかなぁとも思いますが。

なお、ジョブズの言葉としてはしゃべり原稿ですが、"Stay Hungry. Stay Foolish."は、もともと、印刷されていた言葉です。ですから、カッコ書きなど、書き文字コミュニケーション的なテクニックを使ってもかまわないという考え方もできるでしょう。

元にさかのぼって考えると、その言葉が使われた年代も気になります。"Stay Hungry. Stay Foolish."は『The Whole Earth Catalog』廃刊時のメッセージです。『The Whole Earth Catalog』が廃刊されたのは1974年。ジョブズの祝辞から30年以上も前、今から数えると40年近くも前です。そのころ、「若者は馬鹿者」といった表現が一般に普及していたでしょうか。中学生だったからかもしれませんが、当時の私が知っていた表現にはありませんでした。「若者は馬鹿者」という表現を知ったのは、おそらく、20年も前ではなかったように思います。ま、私が知らなくてもごく一般的な表現だったという可能性はあるので確たることは言えませんが、「訳文はいじわるに読む」という原則からすると避けたほうがいい表現になると思います(「原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む。」)。

少しブレーンストーミングをして、このあたりの「若者らしさ」に関係がありそうな言葉で何が出てくるかというと……「大人になる」とか「分別を持つ」とかいうあたりではないでしょうか。ただし、「大人になる」も「分別を持つ」もいい意味で使われます。社会の一員として働いてもらうにはそのほうがいいので当たり前ではあるのですが、でもジョブズは、「そういう常識にとらわれるな」と言っているわけです。常識を覆す言葉だからインパクトがあるとも言えますね。

ともかく、社会常識で是とされないことだけど、それがいいんだと言いたいわけで、常識(←普通はこれがポジティブ)を否定しつつそこにポジティブな雰囲気を載せたいわけです。

と、こんな感じで考えてきた結果が「分別くさくなるな」というわけです。「分別くさい」ならネガティブになりますから。

●表面的な形式の問題

内容面からは「ハングリーであれ。分別くさくなるな。」がいいと思うのですが、この訳に問題がないわけではありません。

原文は、"Stay Hungry. Stay Foolish."と頭韻を踏んだ形になっています。この前半を「ハングリーであれ」と訳すなら、後半も「~であれ」と脚韻を踏ませたほうがいいわけです。「ハングリー」がカタカナですから、「~」もカタカナならベストでしょう。

こういう観点からみると、「ハングリーであれ。分別くさくなるな。」はよくありません。まったくよくありません。前半と後半の形式がまったく違うものになってしまっていますから。最悪というくらいに悪い形です。

■総合すると……

結局、形式や調子のよさを重視して「ハングリーであれ。バカモノであれ。」や「ハングリーであれ。馬鹿者であれ。」あたりを選ぶか、あるいは、誤解されにくくメッセージが正しく伝わることを重視して「ハングリーであれ。分別くさくなるな。」を選ぶかということになると思います。

選ぶ基準は、基本的に(↓)のようになるかと思います。

  • 文章そのものを楽しんでもらう面が強いなら形式や調子のよさを重視
  • なるべく多くの人の人生に対し、その言葉がもともと意図された影響を与えたいと思うなら正しく伝わることを重視

で、私は「ハングリーであれ。分別くさくなるな。」を選んだわけです。「馬鹿であれ」だから勉強はいらないんだぁなどと誤解して道をまちがえる人を増やしたくないと思ったからです。そう思うあたり、私は「分別くさくなってしまった」のかもしれませんが。

出典である『The Whole Earth Catalog』の翻訳としてでてきたのなら、別な選択をしたかもしれません。ジョブズの想い、世間に出てゆく新卒学生へのメッセージという側面を考慮する必要がなくなるからです。また、読み手側の状況によっても別な選択をしたかもしれません。いわばキャッチフレーズとして"Stay Hungry. Stay Foolish."だけが取りあげられるという状況でなければ、つまり、その前後の話まで含めた文脈の中で理解してもらえるなら、インパクト重視という選択もありえます。どや顔で押しだしたいなら「ハングリーであれ。バカモノであれ。」だと思いますしね。

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コメント

私なら「謙虚であれ」とか訳してしまうかもしれません・・・(^^;;。「分別くさくなるな」の方が真意が伝わる気がしますが。

投稿: Aki | 2011年4月 9日 (土) 16時41分

はじめまして。といっても、数年前、大阪のJTFセミナーでご挨拶だけはさせていただいたことがあるのですが。

韻を踏むという前提で、この台詞だけを取り出して一般的に訳すなら「情熱を失うな、分かった気になるな」、スタンフォードの卒業式の祝辞ということを考えると「憧れを失うな、リスクを恐れるな」ぐらいでしょうか。徹夜で疲れ切った頭にフッと浮かんだ訳なので、後で考えると失笑ものかもしれません。

投稿: ミストラル | 2011年4月13日 (水) 06時25分

>Akiさん、

うーん、「謙虚であれ」はちょっと違いそうな気がします。自らの心に従って突きすすむことを勧めているのだと思いますから。まわりがなんと言おうとオレはこの道を突きすすむ!っていうのは、謙虚とだいぶ方向性が違う気がします。

>ミストラルさん、

ぱっと見た感じ、前半はいずれもアリではないかと思います。

後半、「分かった気になるな」のほうは、Akiさんへのコメントと同じ理由からちょっと違うのではないかと思います。「そんなのダメだよ」「無理だよ」という常識の声に負けないで突きすすめという感じのはずです。そういう意味で、「リスクを恐れるな」はアリかもしれません。「分別くさくなるな」よりも一段、具体的かなぁとは思いますけど。

今回のケースでは、「韻を踏む」と同時に、前半をどう訳すかっていうのもあるんですよね(記事のときは書きわすれました^^;)。

前半、私は、「ハングリーであれ」の一択だと思ったんです。原文というか、あのスピーチの動画を見た日本人の大半はそう訳すだろうし、この訳で原文の意は十分に伝わるだろうと思ったからです。とっても安易な訳だとも言えるのですが、それで意が十分に伝わるのなら、下手にひねるより適切だと思うんです。

原文が今回ほど有名になっていない状態で訳すのであれば、ミストラルさんが考えられたように、前半も含めて訳し方を検討するべきでしょう。

投稿: Buckeye | 2011年4月13日 (水) 08時04分

このスピーチは高校の教科書に載っているのですが、その訳のときに授業で考えたのが「貪欲であれ、バカになれ」でした。
高校生の猿知恵での訳ですので、あまり本気にはなさらず。

投稿: sin | 2011年7月18日 (月) 20時46分

sinさん、

おお、高校の教科書に載っているんですね。

我々のように翻訳を仕事にしている人は置いておいて、一般の人なら、どう訳すかよりも、どういうことを言いたいのかを議論してみることをお勧めします。自分の人生をどう生きるのか、いろいろと参考になるはずだと思いますので。

投稿: Buckeye | 2011年7月20日 (水) 20時26分

翻訳仕事を始めてから、著者の真意がとても気になるようになりました。表面的にこなれた日本語にすると微妙に真意から外れて行ってしまうような気がして。それなら直訳のほうが危険が少ないのかもと思ったり。。

foolishにぴったりの訳語が欲しいですよね。「婆娑羅:遠慮なくふるまうこと」が思い浮かびました。でもちょっとずれてますね。もしぴったりの日本語があったら少し歴史的な(めったに使わない)言葉でも使ってもいいのでしょうか。

投稿: あづさ | 2011年8月25日 (木) 21時10分

あづささん、

直訳ってどういう直訳でしょう?

「誤解されやすい翻訳業界の常識-直訳 vs. 意訳」
http://buckeye.way-nifty.com/translator/2010/05/vs-c302.html

プロの翻訳者としては、著者の真意が直に表れた訳という意味の直訳が一番であり、逆に、字面で訳した(辞書の訳語あてただけ、日本語化しているカタカナをあてただけ)ものは最悪というか、だったら英語のママ読んでもらえばいい話で我々の出番はないと思います。

  どういう訳語をあてても微妙にズレる、日本語化しているカタ
  カナをあてても微妙にズレる、どのくらいの人でどのくらいズ
  レるのかを考え、日本語化しているカタカナが一番ズレが少な
  いと思ったのであれば、それは、「著者の真意が(できるかぎ
  り)直に表れた訳」なのでいいんですが。

>もしぴったりの日本語があったら少し歴史的な(めったに使わない)言葉でも
>使ってもいいのでしょうか。

その言葉が原文の状況に即しており、かつ、読者がその意味を正しく理解してくれると思われる場合には、かまわないと私は思います。

ただ現実には、歴史的な言葉、古風な言葉というのは日本や場合によっては中国などを強く想起させる可能性が高く、「原文の状況に即している」となりにくいんですよね。また、一般向けの書籍の場合、後半の「読者がその意味を正しく理解してくれる」もけっこうな確率で成立しないでしょう。

結局、使っていけないことはないが、実際に使えることはあまりないとなるでしょう。

昔やった『スティーブ・ジョブズ-偶像復活』で第一部のタイトルが「Flowering and Withering」だったのを「沙羅双樹の花の色」としたのは、ジョブズが仏教に傾倒していたから、また、平家物語もこの一節くらいは知っている日本人が多いだろうと思ったからです。

投稿: Buckeye | 2011年9月 1日 (木) 09時07分

気づくのが遅くなり失礼いたしました。コメントバックありがとうございます。ご紹介の関連記事も大変参考になりました。

何も足さない、何も引かない 訳文で
原文を読んだ読者が受けとる情報 = 訳文を読んだ読者が受けとる情報

になるような表現を探していきたいと思います。まだ、少しは添削してもらえる状況なのですが、日本語自体の意味の範囲も人それぞれあちこち微妙にずれているんだということにも気づきました。日本語の勉強もさらにしなくては。。(^^;; またお邪魔いたします。

投稿: あづさ | 2011年9月18日 (日) 16時21分

「分別臭くなるな」は言葉に迫力が無い気がします。あえて訳すとすれば
「常にどん欲で、愚直であれ」としたい。

投稿: ブンユウ | 2011年10月23日 (日) 13時36分

ブンユウさん、

そうですね。内容の伝達を重視した分、迫力は落ちてしまったと思います。「~なるな」としただけでも迫力が落ちますし、「分別」という音にも迫力がありませんね。

両立できるケースもありますが、必ずしもできるとは限らないので、なかなかに悩ましいところです。

「愚直」……ですか。候補として上がる言葉だろうと思いますが、同時に、私としてはやはり選びたくない選択肢です。基本的な意味がいわゆる馬鹿正直であり、そうとられてしまうリスクは犯したくないと思います。

投稿: Buckeye | 2011年10月24日 (月) 15時53分

後段を「無分別であれ」ではどうでしょう。

投稿: 77SE10MA | 2011年10月27日 (木) 17時33分

意味的にはアリかなと思います。ただ、今回、祝辞として語られ、ほかの人々は耳から受けとったことを考えると、「無分別」はちょっと書き言葉に寄りすぎているかもしれません。

投稿: Buckeye | 2011年10月28日 (金) 08時03分

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