「機械翻訳時代に翻訳者の生きる道」@20周年記念JTF翻訳祭
20周年記念JTF翻訳祭で話した自分のセッションについて、補足その他、まとめておこうと思います。
翻訳祭全体というか、他のセッションについてのレポートは、「20周年記念JTF翻訳祭」のほうをご覧ください。
■「機械翻訳時代に翻訳者の生きる道」(井口耕二、技術・実務翻訳者、JTF常務理事)
懇親会準備でメイン会場が閉鎖される最終セッションだったこともあり、かなりの人数、入場をお断りしたとあとで聞きました。会場内は後ろの空いている部分に20~30人くらい立ち見の人がいる満杯状態でした。
内容は、一言にまとめれば、「一人ひとりがよく考え、自分にとって幸せな道を選びましょう」ということです。それが機械翻訳を使うという道ならそれもアリだし、翻訳メモリーにゆくもよし。もちろん、機械翻訳も翻訳メモリーも使わない道もあります(←冒頭、話したように私はこの道)。どの道を選んでも楽ではないし、先行き、必ず安泰ということもありません。どの道を選んでもリスクがあるし、かといって選ばずに流されても結果的に選ぶことになってリスクがあります。だったら、ツールの特性などのいい面・悪い面、両方を勘案し、よく考えて選んだほうがいいはずだと思うのです。自分が考えて選んだ道なら、失敗しても納得はできるでしょう。でも、流されて進んだ道だったら? 悔やんでも悔やみきれない思いをするのではないでしょうか。
というわけで、「こうすべき」という話をするのではなく、「一人ひとりが自分にとってはどうなのか」を考える時間にしたいと思いました。そのために配布資料はなし。話の先が読めてしまうと、ポイントごとに揺れ動く自分を感じてもらえなくなると思ったので。
話が終わってしまえばかまわないので、セッションで使ったスライドは公開しておきます。スライドだけを見ても何がなにやらわからないかもしれないとは思うのですが、欲しい方はどうぞ。
なんというか、お金を気にしないでよくて、好きな翻訳をしていればいいという状態なのだとしたら、機械翻訳ソフトをツールとして使いたいという人はまずいないのではないかと思うのです。翻訳メモリーだってどうだろうと思います。でも、プロとして仕事をするとき、お金の問題は避けて通れません。翻訳メモリー前提の仕事も少なくない、機械翻訳のポストエディットの仕事が増えている……その中で何を選ぶのか、どう仕事をしてゆくのか、悩みは尽きないはずです。
機械翻訳も翻訳メモリーも、世の中に出ている話はほとんどがいい話ばかり。でも、それは本当なの? ほかの方法と比べてどうなの? そういう視点を忘れてうたい文句にだまされるのは「流される」ことにほかならないと思うのです。
全体的な話は、スタッフの方が公式のまとめを作ってくれるはずなのでそちらにお任せすることにして……ここではセッション中、うっかり言い忘れた大事なポイントを取りあげておきます。
手慣れてサクサク進むいつもの案件なら、人間、鍛えれば時間1000ワード以上も翻訳できたりするという話をセッションでしました。私が知っているだけで、このレベルの人が片手の指くらいはいます(だから、機械翻訳ソフトをツールとして平均時速650語という話を聞いても別に驚かないわけです)。いずれも、機械翻訳も翻訳メモリーも使っていない人。ここで「時間1000ワードというのは特殊な人であり、自分にはできないと思う人」と聞いたところ、けっこうな人数、手が挙がりました。そう思うのも無理はないと思うのですが、であれば、機械翻訳をツールとして使ったら平均時速650語というのも特殊な人だからできるので自分にはできないとは思わないのでしょうか。極められなければ、どちらの場合も、トップクラスの人の7割とか8割のスピードになるかもとは思わないのでしょうか。
「いや、機械翻訳の場合はツールの特性だから……」と言われるかもしれません。半分正しく、半分まちがっている意見だと思います。まちがっているほうは、「ツールの特性がすべてではなく、人が関与する限り、人による違いがある。よって、ほかの人ができているからといって自分ができるとはかぎらない」という点。
半分正しいというのは、ツールの特性として、少なくともスピードの点で収束する傾向があるらしいからです。
人間が翻訳する場合と機械翻訳をツールとして使う場合で、人間が頭を使うポイントがまったく異なりますし、作業の流れもまったく異なります。だから、機械翻訳をツールとして使うと、遅い人は速くなり、速い人は遅くなります。これ、よく言われることなのですが、実は昔、実際に研究で確認した人がいるそうです。
今年9月の日本通訳翻訳学会で、山田優さん(立教大学博士課程。IT系のプロ翻訳者です)の「機械翻訳は使えるのか ~Post-editingの観点から検証する~」でデータが引用されていました(↓)。訳すスピードの速い人、3人ほどはポストエディットのほうが遅くなっていることがわかります。データは1964年、ロシア語→英語で取られたもので古いのですが、定性的には変化しない話だと私は考えています。「訳すから速い。チェックだから時間がかかる」という面があるのです。
「自分はスピードが遅いから機械翻訳の導入にメリットがある」……その可能性はあります。でも、すべてのことにトレードオフがあります。ここで切り捨てられてしまうのは、「機械翻訳を使った場合をはるかに超える品質とスピード、それを手にできる可能性」です。
短期的にも、自分の理解能力を超えるスピードを出したときどうなるかという大問題があるのですが……
先々、手に入るか入らないかわからないメリットはあきらめて短期的なメリットを手にするのか、手に入れば大きい将来的なメリットをめざして短期的なメリットをあきらめるのか。セッションでくり返し訴えたことなのだけれど、ここも、「自分にとって何が大事なのか。どうしたら自分は幸せになれるのか。それをよく考え、自分で選ぶ」しかないのだと思います。
■質疑
●例として出したレーダーチャートについて、私が優先する項目は?
私としてはどれも大事というか、自分が大事だと思うものを例として出したというか、です。
好きでなきゃやってられないし、他の人々の役に立っているという実感がなければ続けてゆけません。収入も、子どもを抱えて一定レベルはないとどうにもなりません。時間も、もともと、時間的余裕を求めて会社員を辞めたわけで、それなりのレベルでないと何のためにこの仕事に転職したのかわからないことになります。
●「単価×処理量」以外に収入を得る方法はないのか?
質問されたのは、「翻訳者だからできる!世界に向けたアプリの開発と販売」というセッションをされた西野竜太郎さん。
「たとえば?」とたずねると、「たとえば常駐し、さっと翻訳できる形でサービスを提供するなど」という話が出てきました。また、その場での話だけでなく、懇親会で少し続きをお話ししました。
「単価×処理量」でなければならないとは私も思わないのですが、実際問題、お金を払うほうにとって何が価値なのか、どういう価値を我々翻訳者は提供できるのかと考えると、「単価×処理量」をベースにする以外、あまり思いつかなかったりします。
「さっと翻訳できる」「はやい」というのは価値であり、たとえば、翻訳会社経由ではなくソースクライアント直接なら連絡時間などの分、はやくなるとか、予約してもらえば時間を開けておくことができるとか、いろいろな形で「はやい」という価値を提供できることは事実です。そして、そういう部分に価値を見いだしてくれるクライアントに対しては、翻訳会社さんの売りよりも高い値段で買ってもらうこともできます。
西野さんとしては、翻訳以外の部分でどうにかならないかという思いもあるようでした。それはそれであるというか、翻訳以外の部分に売りがある人はそこで稼ぐのもアリでしょう。ただ、翻訳者とはなんぞやと考えると、やはり、一番の売りは「翻訳」であり、そこをメインに周辺もっていう考え方が基本だと思います。一番の売りを安くして、極端な例では無償にして、ほかで稼ぐというのは、翻訳者にとってけっしていい道にならないはずです。
このあたりについての私の考えは、「勝ち残る翻訳者-高低二極分化する翻訳マーケットの中で」に書いたとおりです。
■2次会
懇親会後の2次会で一緒になった方との会話。記憶で書いてますので、細かいところは違っているかもしれませんm(_ _)m>会話した相手の方
「自分はスピード遅い方だし、効率アップってよさそうだと思うんです。でも、今のスピードで目標の年収は得られているから、まあ、いいかなぁ、と」
「総合して2割、スピードがあがったら、同じ仕事を2割、短い時間ですませられますよ? その時間があったらしたいこと、ありません? 毎日、奥さんとゆっくりお昼を食べにゆくでもいいし、その分、ゆっくり寝てもいいし」
「……そういう考え方、したことありませんでした……そっか……稼ぎを増やすためだけじゃないんだ」
そうです。稼げるなら稼がない選択ができるんです。稼げなければ、生活するために稼ぐしか選択肢がありませんけど。
このあたりは、「『稼げる』ことにこだわる理由」に詳しく書いています。
■補足あれこれ
補足しておきますが……単純にスピードを求めると品質がさがってきます。このあたり、詳しくは「読むスピードで翻訳できれば最高の品質が得られる」をご覧ください。
品質を下げずにスピードアップするには、(↓)がポイントだと思います。
- 無駄を省き(キー操作2回を1回でできるようにするなど)、その動作を体にたたき込む
- 1文ごとに徹底的に考えて、訳文生成のポイントを体にたたき込む(Sakinoさんがよく言う「自動運転」を増やす)
これで結果的にスピードがあがるわけです。もちろん、徹底的に考えるという作業はスピードアップしても続けます。その結果、場合によっては1単語に1時間かかるケースだって出てきます(「久しぶりに1単語1時間コース」)。だからいいんです。品質を確保しつつできるかぎりのスピードアップをしたら、結果的に1時間で1単語だったり1000単語だったりするからこそ、品質とスピードの両立になるわけです。
私の場合、たとえば翻訳祭の基調講演で出てきたポイントのワーキングメモリーとか結束性の話とか、それぞれ、ひとつを取りあげて、しばらく、重点的に練習してみることにしています。半年とか1年とか、どの文も、必ず、その点はどうだろうと考えてみるわけです。回数にして万単位で考えてみることになりますね。そのくらいやると、それなりに体にしみこむので、次のポイントへと移ります。今はまだそういうことをくり返している段階ですが(時々、復習的に練習することもあります)、さまざまなポイントが身につくと、たぶん、相互の関係などから別な練習が必要になる時期がくるんじゃないかなと思っています(根拠なし)。
私のセッションでアイスダンスは基礎練習ばかりだという話を紹介し、基礎練習の重要性を訴えたのですが、私としては、こういう形が翻訳における基礎練習になるのではないかと思うわけです。
■蛇足
今回のプレゼンテーションは、今年出た訳書、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン―人々を惹きつける18の法則』から何点か、ポイントを採用し、今までと少し違うやり方をしてみました。
一番大きな違いは、机の向こうに座らず、立って話をすること。机に座ったり演台を間に挟んだりするとなんとなく聴衆と距離が出るような気がして今までも気にはなっていたのですが、立って話すというのは誰もやらないので勇気がでなかったという……
この場合、問題になるのはマイクです。襟元に止めるタイプのマイクがあれば一番ですが、そんなものが用意されている会場というのはまずありません。かといって、中村さんのようにマイクなしで声が通るかというとちょっと心配です。自分自身、耳が悪いこともあり、やはりマイクで拡声されたもののほうが聞きやすかったりしますし。でも立ってマイクを持つと、ラインをどっかにひっかけそうだし……悩んでいたのですが、幸い、司会の方のマイクがワイヤレスだったので、そちらを貸してもらうことにしました。
PPTの造りも、言葉を極力減らすようにしてみました。
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コメント
上記、西野さんがご自身のブログに関連の記事を挙げておられます。翻訳以外の部分でどうにかならないかという思いがおありらしいという推測は正しかったようです。
「翻訳はタダで提供できるのか?」
http://blog.nishinos.com/archives/3149736.html
投稿: Buckeye | 2010年12月15日 (水) 21時52分
>PPTの造りも、言葉を極力減らすようにしてみました
こんにちは。
上場企業のプレゼン資料(PPT)の翻訳(日英)をほぼ毎月のようにやっていますが、おしなべて言葉が多すぎると感じています。
ミーティングに出席できない人のために、言葉での情報を沢山盛り込んでいるとも考えられますが・・・。
翻訳する立場から言うと、情報量が多いので、発表者が何を言いたいのか分かりやすい(=翻訳しやすい)。
たった1つの言葉に躓いて、新たにリサーチし、最適と思われる訳語を考えるという作業(この作業自体は嫌いではありませんが)は、効率という点からいうと減らしたいですから。
投稿: takey | 2010年12月16日 (木) 05時58分
たいへん興味深いお話ですね。
プレゼン資料の公開、ありがとうございます。フィギュアスケート選手時代のお写真が拝見できたのが嬉しかったです。(笑)
以下、長文になります。m(._.)m
◆機械翻訳をツールとして使う場合
スピードの比較ではなく、自分にとって効率アップのツールとして使えるかという視点で、複数の翻訳者に実験してもらったことがあります。
結果、予想通りですが、
1.使いたくない派(効率がかえって悪くなる。これだったら自分でやった方がまし)
と、
2.使ってみてもいい派(まあ、原文の種類(分野)によっては効率がアップするだろう)
に分かれました。
私自身は前者です。
実際に試してみましたが、機械翻訳がやってくれた変な訳に引きずられそうになるのが、いちばん怖かったですね。
機械翻訳を好むか否かは、各翻訳者の訳出・思考パターンのようなものに関係しているように思います。そこらへんは、ブラックボックス的で、何が決定的な要素なのかはわからないのですが。
それから、母語への訳出と外国語への訳出で、またちょっと違ってくるかなとも思います。
ちなみに、ロシア語の研究データはすべて母語から外国語方向への訳出なのでしょうか。
◆1文ごとに徹底的に考えて、訳文生成のポイントを体にたたき込む
ちょっと話はずれてしまいますが、高品質の翻訳を出す翻訳者には何か共通のパターンがあるか、個人的に興味があり、ここ何年か、やはり複数の翻訳者に具体的な訳出作業について聞いています(初稿にかける時間、推敲にかける時間、印刷して見直ししているか、どんな調べ物をしているか、使用辞書等)。
ひとつわかったのは、
1.初稿にかなり時間をかけ、推敲は少ないタイプ
2.初稿は粗訳(わからない原語はそのまま残すこともあり)で、その後の推敲・調べものに時間をかけるタイプ
で、品質がわかれることはなさそうだ、という点です。
これについては、いかが思われますか(ちなみに私は2番目のタイプです)。
ちなみに、外国語方向に訳すときは、推敲に時間をかけすぎるとかえって品質が低くなるというケースも見られました(特に翻訳者の外国語能力がそう高くない場合)。
投稿: wahaha | 2010年12月16日 (木) 06時39分
takeyさん、
英日も言葉が多すぎるものが大半ですね。おっしゃるとおり、訳す立場からするとそのほうがやりやすくて助かりますけど。
単語一つとかポンと出されたら困りますよね。その単語の意味範囲のどの部分なのかがわからなかったりするでしょうし、どうしても若干意味がずれる部分があったとき調整のしようもなかったりしますし。
投稿: Buckeye | 2010年12月16日 (木) 09時02分
wahahaさん、
ロシア語の研究データは……山田さんの発表からの孫引きなので、母語と外国語、どっちからどっちなのかまではわかっていません。すみません。
訳出のパターンというか翻訳者のタイプと最終品質との相関というのはないと思います。私は1ですが、知り合いのすごく上手な人で2という人も知っていますし。逆に、どちらのタイプにも質の悪い翻訳、ありますしね。
機械翻訳との関係は……いろいろとややこしそうです。少し考えてまとめてみますね。
投稿: Buckeye | 2010年12月16日 (木) 09時38分
スライドの写真、採点が6点満点時代の高橋大輔かと思いました。(*゚▽゚)ノ
この時代の映像をYouTubeでみると、画面がもや~~っとなっていていい感じです。氷の管理方法も違っていたのでしょうか?
Buckeyeさんのダブルルッツ見てみたいです。
投稿: TK | 2010年12月16日 (木) 11時04分
TKさん、
今の世界のトップ争いと昔の全日本の最下位争いでは比べるべくもないのですが、ま、静止画像ですからね(^^;)
このころと今だと、違うのは氷の管理ではなく、たぶん、場内の空調なんだろうと思います。今は場内に空調がかかっていて、湿気がおさえられているのではないかと。
ダブルルッツは……もう飛べません。15年くらい飛んでません。っていうか、今はもう、地上でジャンプしても回転できないくらいにバランス感覚、死んでます(--;)
というわけで、実演はとても無理なのですが……昔の静止画でよければ(↓)をどうぞ。
http://homepage2.nifty.com/buckeye/skater/single.htm
投稿: Buckeye | 2010年12月16日 (木) 14時58分