翻訳の質素イノベーション?
知り合いのブログからリンクをたどったら、「IT翻訳者Blog」というところに「翻訳の質素イノベーション」という記事がありました。
ここしばらく、翻訳関係の人と話したりブログを読んだりしていると、翻訳料金の相場が下落している話をよく聞く。相場が下落しては質を保つのは難しいが、それでも高品質な翻訳を行いたいと思っている翻訳者や翻訳会社は多い。しかし実のところ、エンドユーザーは「質の高さ」を必ずしも求めていないのかもしれないのである。最低限の日本語品質を確保できるのであれば、それを超える品質は過剰であると考える層は意外に多い可能性はある。そうなると「良いものを作れば、売れる」という愚直で職人的な信念では、ビジネスはうまく行かない。
「エンドユーザーは『質の高さ』を必ずしも求めていないのかもしれない」はそのとおりでしょう。エンドユーザーが求めているのは、総合して満足できるモノ、のはずですから。ただ、そこからスタートして品質過剰へと話をつなげるのは無理があると思います。
■許容と品質過剰
この記事で例として取りあげられているmixiのサンシャイン牧場が人気なのは、翻訳の良し悪しが関係ないくらいゲーム自体のコンセプトがおもしろかったからでしょう。それでもなお、このゲームの日本語訳がよくなれば、ゲームをする人の満足度は確実に高くなりますし、もう一段、多くの人が楽しんだ可能性もあります。ともかく、満足度というのは総体的なものであり、かつ、相対的なものです。満足度に影響する要因は数多く存在し、全体を総合して満足度が一定以上になれば売れるし一定以下に落ちれば売れない。これはもう、昔からそうだったし、これからもそうであり続けるものでしょう。
翻訳の世界に話をかぎっても、同じ話は昔からずっと続いています。よく言われるのは書籍の翻訳。書籍が売れるかどうかは基本的に原作の良し悪しで決まって、翻訳の良し悪しは関係がないことが多いわけです。もちろん、翻訳が悪すぎれば、総体的な満足度が落ちて売れなくなる可能性はありますが、翻訳がどんなによくても原著がよくなければ総体的な満足度は上がりようがなく、売れることはありません。
アマゾンなどの書評で「翻訳が悪すぎる」と酷評を受けても売れている本というのがあります。では、「翻訳が悪すぎる」と酷評を受けても売れている本のレベルを超える翻訳は「品質過剰」なのでしょうか。そういう話ではないですよね? そう考えれば、サンシャイン牧場という例から、上記の「最低限の日本語品質を確保できるのであれば、それを超える品質は過剰であると考える層は意外に多い可能性はある」という考え方を引きだすのは論理的に無理があることがわかると思います。
「最低限の日本語品質を確保できるのであれば、それを超える品質は過剰である」……「過剰」ということは、マイナスであってそうでないほうがいいということです。言い換えれば、「最低限の日本語品質がベスト」ということ。でもそんなはず、ありませんよね。最低限の日本語品質のサンシャイン牧場ときちんとした日本語のサンシャイン牧場が同じ条件で提供されたとき、みんな、最低限の日本語品質のサンシャイン牧場を取る……そういうことにはならず、逆に、みんな、きちんとした日本語のサンシャイン牧場を取るでしょう。
■品質は常に価格との見合い
品質に対する満足というのは、「値段との見合いで」という条件で考える必要があります。「品質、スピード、価格」で書いたように、(↓)ということです。
英日翻訳、仕上がり日本語400字で「1枚2000円ならこんな程度だろう」という「満足」もあれば、「さすが1枚5000円払っただけのことはある」という「満足」もある。
いずれにせよ、「安ければ最低限の日本語品質『でもよい』」と考えられるケースは存在しますし、そういう仕事にニーズも存在します。供給側の論理として、「最低限の日本語品質でも望む結果が得られるのだから、それを超える品質は『過剰』である」という考え方も存在します。
だから、前提というか議論の流れに問題はあれど、(↓)の結論部分は正しいと思います。
翻訳にも質素イノベーションが起こっていて、その市場に適応したスペックと価格でサービスを提供するという選択肢があり得るのだという認識が必要かもしれない。少なくとも「良いものを作れば、売れる」という職人的な信念は相対化すべきだろう。
付けくわえれば、「認識が必要」という段階はすでに通り過ぎており、「その市場に適応したスペックと価格でサービスを提供するという選択肢」を実現する人たちがいる時代に入っていますけど。そのあたりは、最近ちょうど「激安翻訳のサイト」や「翻訳の新しい進め方」で紹介したとおりです。
また、そのような動きがあるなか、プロの翻訳者として取りうる選択肢が(↓)しかないのは、「激安翻訳のサイト」に書いたとおりです。
プロとして仕事をしている立場からいえば、そういう形に食われないだけの力をつけ、営業をしてゆく。それに尽きると思います。
もちろん、最低限の日本語品質でサービスを提供し、それに見合った料金をもらうという方向に進んでいけないわけではありません。ただ、少なくとも日本に住んでいたら食べられないだろうなと思うだけです。
■良いものを作れば、売れる?
最低限の日本語品質のサンシャイン牧場ときちんとした日本語のサンシャイン牧場が同じ条件で提供されたときどうなるかを考えれば自明ですが、同じ条件なら、よいものが売れます。経済原則として当たり前です。
「よいものを作って高く売りたい」から難しいわけです。そして、よいものを高く売りたいなら、売る努力も必要です。
なお、「安ければ最低限の日本語品質『でもよい』」というニーズもありますが、「現状よりも高い品質の翻訳が欲しい」というニーズも強くあります。おそらく、翻訳者全体としては、あと10年やそこらでは満足できないくらいたっぷりと。
両方のニーズがあることやそれぞれのニーズにからむ条件、そしてもちろん、自分側の条件も考慮した上で、自分は何をめざしてどういう努力をするのか、一人ひとりが考えて決める必要があります。
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コメント
はじめまして、「IT翻訳者Blog」の西野です。
1 エントリを割いて私の記事について論じていただき、ありがとうございます。
私が翻訳者になる際、ご著書を拝読しておりました。尊敬する大先輩のご意見をいただけて恐縮しております。
さて今回の「翻訳の質素イノベーション」について新たに記事を書きました。お読みいただければ幸いです。
http://blog.nishinos.com/archives/2942467.html
投稿: 西野竜太郎 | 2010年8月29日 (日) 03時16分
こうした問題を目にしたときに私が思うのは「品質の分布」です。「日頃目にする日本語全体の品質」が私たちの「日本語の品質への感性」を形作っています。たとえばこれまでの日本語の品質の「平均点」(これは非常に乱暴な言い方ですが)を50点だとしましょう。
こうした状況下では 49 点の文章も「まあまあ合格」と言って受けいれられることでしょう。
問題はその先にあります。もし 49 点でも良しとされる状況が続くなら、全体的な分布が 49 点を「平均」とするようにシフトしてしまう可能性があるのです。多くの文書の品質は広く分布していますから俄には平均点 50→49 のシフトを実感できないかもしれません。 しかし世の中の文書の品質がシフトするとそれは書き手の品質意識にも影響を確実に与えることになります(自分は平均的な品質のものを書いているつもりで、じつは 49点のものを書いている)。そうするうちに、今度は 48 点のものが増え始め、また少し平均点が下がります。こうした「下降」はごくごくゆっくりと進むので、なかなか気が付くことができないのですが着実に全体の品質を下げて行き、気がついたときには大幅な品質低下が起きているということになるのです。
こうしたことを防ぐためには、たとえ過剰品質だと言われようとも常に「平均点より上」の品質を目指さなければなりません。それでやっと現状維持ができる程度だと思います。まあここに書いたコメントは何ら科学的根拠のあるものではなく、直感的な観察に過ぎませんが。
投稿: ardbeg1958 | 2010年8月29日 (日) 20時41分
もちろん 49 点だ 50 点だという単純なスコアリングは不可能だと思っています。しかし、品質とコストの関係を論じる際に出される「このコストで、この程度の品質なら許容範囲だ」という発想に、何らかの尺度での「品質分布」を低い方にシフトさせるメカニズムがあるのではないかと思っているのです。すみません、繰り返しますがこれは私の直感で理論化されていません。
ちょっとだけパラフレーズさせて下さい。
「コスト C で品質 Q が達成され 80% の人が満足」という何らかの「指標」があったとします(これ自身なんだか怪しげな指標ですが)。ここで「 C を 90% にカットして品質 Q が 95% に落ちても、まだ 78% の人が満足する」という新たな「指標」が出されたとします。実際の品質や満足度はそれほど厳密に数値化できるわけでもないので、「10% コストカットでほとんど満足度は変わらないならそうしよう」と判断する経営者は多そうな気がします。ましてや「品質だけで売れ行きが決まるわけではない」場合には。
こうすると、この 95% に落ちた品質が新たな品質基準になり、更に次の段階で「10% コストカットでほとんど満足度は変わらないなら・・・」という判断が続き悪循環が進むという図式です。
この「あまり変わらないなら少し位悪くてもイイじゃないスパイラル」が私たちを脅かしているのだと思います。翻訳に限らず。
投稿: ardbeg1958 | 2010年8月29日 (日) 21時09分
西野さん、
西野さんのブログでコメントをやりとりした結果、言われたいことはだいたいわかったような気がします。私が考えていることと同じところと違うところがあるようなので、近いうちに私のほうの考えをまとめてこちらにアップロードしようと思います。
投稿: Buckeye | 2010年8月30日 (月) 10時52分
ardbeg1958さん、
そうですね、そういう流れもあるだろうと思います。
あと、「ここをこう変えても感じられるほどの品質差は生まれない」をくり返して、いつのまにか、品質が大幅に落ちている、とか。
いずれも検証できるような話ではありませんが、私も同じことを感じます。
まあ、こういう話は業界によらずおきる話のようです。ワインバーグの『コンサルタントの秘密』という本でも、「ファストフードのウソ」として紹介されています。レシピのここをわからないぐらい落とせばこれだけのコストカットができるという話をくり返し、結局、提供会社の役員が人間の食い物じゃないと言うようになってしまうという話です。
投稿: Buckeye | 2010年8月30日 (月) 10時57分
Buckeye さん
何度もコメントをいただき、ありがとうございました。
Buckeye さんの次のエントリを楽しみにしております。
投稿: 西野竜太郎 | 2010年8月31日 (火) 22時44分
このエントリーに対し、ツイッターで@makotonagasawaさんという方から、以下のコメントがありました。
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http://twitter.com/makotonagasawa
“Webアプリの場合は他社より早くリリースしてユーザーを獲得してビジネスを成功させたいのだから「同じ条件なら、よいものが売れます。経済原則として当たり前です。」は論点が間違っている。RT @okihiro_t: http://ow.ly/2wfx5 ”
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(ツイッターなので、流されて過去のページに移動しています)
論点がどう間違っていると言われたいのか、複数とおり考えられるので何ともコメントしにくいですね。
私はべつにWebアプリ成功の条件を語っているわけではないし、翻訳の品質がWebアプリの成功を左右すると言っているわけでもありません。ただ、「同じ条件ならよいものが売れる」という自由主義経済において不変の原理を書いただけです。もちろん、Webアプリならリリース時期とか、そのほかプロモーションのやり方とか規模とか、よいものと悪いもので「条件が違えば」、よいものが売れるとは限りません。それは、「同じ条件ならよいものが売れる」に内包される原理です。
Webアプリのリリース時期について言えば、リリース時期も含めた条件がすべて同じで翻訳の品質がいいものと悪いものがあったら、翻訳の品質がいいものが売れるのは当たり前でしょう。現実には、翻訳の品質をよくしようとすれば時間がかかる可能性は高いのですが、必ずしもそうとはかぎりませんし。サンシャイン牧場の翻訳にどのくらいの時間がかかったのかわかりませんが、それが意外にかかっていたなら同じ時間でもっといい翻訳があげられた可能性もあります。
というか、@makotonagasawaさんの職業はLocalization (Translation) Project Manager/Localization (Translation) Engineerとのことで、少しでも短時間でいい翻訳をあげるにはどうすればいいかを考え、実践してゆくことがお仕事のはずです。それなら、いかにすればいい翻訳のWebアプリを早期にリリースできるのか、そちら方向のアイデアを出していただければ話が別のほうに発展してそれはそれでおもしろくなっただろうと思います。
投稿: Buckeye | 2010年9月 3日 (金) 08時34分