翻訳書は読みにくいもの
自分で訳書を出していてこんなことを言うのもなんですが、翻訳書って読みにくいものです。はい、私が訳者であるものも含めて。
翻訳書というのは、なにをどうがんばっても、読みにくいものにしかならない。私はそう思うんです。
言語が違うと文章構造が違うという部分は翻訳段階で吸収すべきものなので、まあ、あまり影響が出ないのですが(っていうか、出ないようにするのが我々の仕事なわけですが)、論理展開や話の見せ方自体が違う部分は吸収しきれずに残ってしまいます。論理展開については、多少なら、文章の順番を入れ替えてみたり、あっちの文章に出てくる情報の一部をほかの文章に埋めこむなどして吸収できますが、でもあくまで「多少なら」。かなりの部分は残ってしまいます。そうやってできた訳文の論理展開が日本語でまったくないってわけではないので、きちんと日本語になっていると言えば言えるのですが、でも、部分部分ではなく、そういう「日本語としては珍しい」論理展開がえんえんと続くというのは、やはり、微妙に読みにくいと思わせる原因となります。
論理展開の違いを吸収する第一段階は、各文を訳すときです。ある文を訳すとき、その文に出てくる情報をどういう順番で提示するのかも、訳文側の論理展開に合うように調整するわけです。原文で主語になっているから日本語でも主語に、など、機械的に処理できるものではありません。
技術論文などのように日本語自体も特殊になる世界だと、翻訳時の処理でほぼすべてを吸収できて翻訳だから読みにくいということはなくなったりします。でも、マーケティング資料になると、どうにもならない部分が出てきたりします。
さらに。実例とか比喩とか、原著が出た国では誰でも知ってるけど日本人には親しみのないものが山のように……前に訳した『ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ』ではさまざまな企業の例が出てきますが、米国企業を例にするより日本企業を例にしてくれたほうが絶対に読みやすくなります。少なくとも日本から見た米国企業という形で書いてくれたほうが。でも、そういう中身の部分まで翻訳時に変えてしまうわけにはいきません。それじゃ、翻訳書ではなく、着眼点などだけパクった盗作本になってしまいます。
このあたりに関係するエントリーを見つけたので、そちらもぜひ読んでみてください。
「デス妻」記事で取りあげられているのは、「文化の違い」という言い方でくくられるものですが、先日、こちらで検討した「unleash」問題なども、本質的にはまったく同じことです。
翻訳書は必ず読みにくい。だから、我々翻訳者は、どうにもならない部分以外で読者の足を引っぱらないようにしなきゃいけない。そういうことなのだと思います。
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