翻訳が正しいか否かは翻訳後に決まる
私は、翻訳者が大きく二分されるのだと思います。客観的な正解があると思う人たちとないと思う人たちです。
「客観的な正解がない」とはどういうことでしょうか。
翻訳というのは読んで理解してもらってナンボなので、読者を抜きにして「正しい」を判断しようとしても始まりません。つまり、翻訳をする時点よりも前の事柄だけでは決まらず、翻訳をした「あと」の因子が「正しい」かどうかに大きな影響を与えるわけです。しかも、「あと」の因子が入ったからといって確定するわけではなく、「あと」の因子の変化に合わせていつまでも変転してゆきます。
たとえば英日翻訳においては、ターゲット言語である日本語側の知識・理解が異なれば、同じ訳文を読んでも人によって理解が異なります。昔、国語の読解問題でみんながそれぞれ違う答えを書いてましたよね?
これが、日本人全員がどのような問題にも同じ回答をするのであれば、それは、厳密な意味で日本語という共通土台が存在することになり、その土台に則って客観的に正しい翻訳をすることが可能かもしれません。
でも、「日本語という共通土台」は存在しません。
こういうと、「共通土台がなければコミュニケーションさえもできない。現実にはコミュニケーションが取れているのだから共通土台はある」と反論されたりします。
私は、そんな○か×という二進法みたいな世界ではないと思うのです。
「日本語という共通土台」がないから、たとえば日本人同士でもコミュニケーションには常に多少のズレが含まれます。そのズレが小さければコミュニケーションが取れていると言われるし、ズレが大きくなるとコミュニケーションが成立しないと言われたりするわけです。
このあたり、私はいわゆる正規分布のようなものなのだろうと思っています。例の真ん中が山になってて両側のすそ野がゆったりと広がってるグラフです。
縦軸は人数でしょうか。横軸は日本語(漠然としていますが……日本語というものの違いを表現する要因が数多くあるので、とにかく、人によって違いがあるということのみをもって横軸に散ると考えます)。
真ん中のピークあたりをカバーする日本語で書けば、最も多数の日本人に話が通じます。でも、たぶん、両側のすそ野にいる人たちとはズレます。このズレが大きくてコミュニケーションが取れないと言われるレベルに達する可能性もあります。だからといって、全体をカバーしようとすればめちゃくちゃ細かく、あれもこれも説明する必要があります。そうなると、そういう長ったらしいものを読まされるというだけでアウトになってしまう人たちをはじき出すことになります。つまり、どうがんばっても一定数には届かない。
これが、たとえば右側のすそ野に合わせてしまうと、真ん中の最も人数が多いあたりですでに理解できなくなり、頂点の反対側は全滅となるでしょう。
だから、我々翻訳者としては、対象読者の日本語(英語でも何でも同じですが)が描く正規分布の真ん中あたりを狙う必要があるわけです。
で、この対象読者というのは、日本語を使う人全員という集合の部分集合です。そして、対象読者の正規分布と日本語を使う人全員の正規分布を見ると、ほぼ同じ位置に山がある場合と山が大きくずれている場合があります。対象読者がエンジニアとかいう場合はけっこう大きくずれます(専門用語とか、いろいろありますから)。その場合、母集合(日本語を使う人全員)ではめちゃくちゃすそ野のはしっこみたいな日本語が部分集合であるエンジニアの正規分布ではど真ん中だったりするわけです。
こうして集団を小さくしてゆけば、正規分布全体の大きさも小さくなり、我々がカバーしなければならない範囲も母集団と同じ基準で見れば小さくなって行きます。専門家向けの翻訳のほうがむしろやさしいと言われるゆえんです。
ただ、集団を小さくしても正規分布であることにはかわりがありません。これが正規分布と言えなくなるのは、集合が小さくなりすぎたときだけ。全員の顔が見えるくらいになると、全体を集合として把握するのではなく、一人ひとりを離散した点として認識するようになります。この終点となるのが、相手が一人だけという状態。相手と自分は日本語を使う人全員という母集合ではあっちとこっち、大きく離れているかもしれませんが、それでも相手に合わせて話ができればカバー率100%が達成できます。ただ、相手と自分に存在するズレを完全に把握して調整することができなければ、コミュニケーションに一定のズレが生じます。
翻訳や執筆における問題は、翻訳や執筆をする時点で対象読者という対象集団の日本語分布を完全に把握するのが不可能であること。
集団としてとらえる時点で、もう、グループの周辺がぼけることが避けられません(誰が入り誰が入らないか、最後はやってみなければわからない)。仮に集団ではなく、特定の個人を相手にしても、他人であれば、その人の日本語を完全に把握することは不可能です。なんてったって他人ですから。さらにさらに、対象読者が自分であっても、それを読むときの未来の自分の状態は把握できません。自分が書いたものなのに、メモが意味するところがわからずに首をひねった経験、ありませんか? 私はけっこうあります(忘れっぽいので^^;)。
完ぺきは不可能という状況で何ができるかと言えば、対象読者の日本語分布をできるだけ正しく把握すること、その分布の真ん中に当てること、そして、真ん中からすそ野に向け、言語的に無理のない範囲でカバー範囲を少しでも広げること。これらを原語からの翻訳だと言える範囲で実現すること。
そういうことなのだと私は考えています。
これを翻訳者の視点から簡単にまとめると、(↓)になると思います。
- 対象読者によって「正しい翻訳」は変化する
- 対象読者の全員にとって「正しい翻訳」はないが、「正しい翻訳」となる対象読者の割合は翻訳によって異なる
昔、「誤訳とは?」という記事を書いていますが、この記事で言いたかったことを詳しく言うと今回の記事のようになります。
なお、翻訳の場合、原文側の解釈においてもこの「客観的な正解がない」と直面することになります。著者はどの部分集合に向けて書いているのか、その部分集合の中央付近ではどういう解釈がされるのか。それを推測することが我々の仕事になるわけです。
この解釈部分をもう少し具体的な話として書いたのが(↓)です。
「誤解されやすい翻訳業界の常識-訳文に、翻訳者の解釈を入れてはならない」
こちらも合わせて読んでおくことをお勧めします
「原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む。」
翻訳フォーラムを一緒にやっているSakinoさんと私はどちらも文脈至上主義とでも言う感じで文脈、文脈と寝言のように言っているのですが、その背景には、今回のような考え方があります。
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コメント
コメントが遅くなりました。
以下、同じようなことを別の言い方で言っているだけという気がしますが、少し。
「翻訳作業論」(翻訳文学論とかじゃなくて^^;)を確立しなくちゃいけないとつとに考えている当方としては、まぁ、比較的、マメに、翻訳者が何を考えながら作業をしているかを観察していると思うのですが、
結構なみなさんは、「正しい翻訳」があると思って作業しておられる。
これは、認めていいかな、と思っています。
でもって、だいじなのは、何を「正しい翻訳」と思っているか、なんだろうと思うわけです。
そして、これは、景浦先生が、
「あえて誤解を恐れずに一般化すると,最近の機
械翻訳研究は,(1) 正解は客観的に計算可能なかた
ちで存在する,(2) 言語の計算によってその正解を
求めることができる,という枠組みにのっとって
いる。」
とおっしゃっているなかで出てくる、計算可能性的なものとは、全然ちがうし、また、翻訳文学論として語られている「野崎vs村上」的なものとも、若干の重複部分はあるだろうけれども、かなりちがっている。
ともかく、翻訳者が翻訳作業において考えている「正しい翻訳」とは何なのかを、はっきりさせないといけない、と思うわけです。
(ちなみに、先週土曜に、文学評論系の人たちが、「野崎vs村上」だけでなく、独文系の定番ネタも含めていろいろ会話していらっしゃるところにモロに同席してしまったのですが、「おいおい、翻訳について、それで語ったつもりになるなよ」と思いつつ、最初はじっと我慢の子で聴いていたのですが、翻訳文学論というふうに頭を切り換えて聴いていると、それはそれで、本質もついているし、大事なことなんだろうな、と思いました。翻訳フォーラム的な言い方でいいかえると、「読み」の側はパスしますが、ともかく「リライト」をめぐる議論がかなり入ってくるということと理解しています。そうそう、カポーティなんかも、当然ですが、話題になっていました。)
一度切りますね。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 10時20分
で、翻訳者は、何を
「正しい翻訳!」
と思って作業している(と私が思っている^^;)かというと、それは、たぶん、
「正しくなくない翻訳^^;」
なんだろうと思います。
つまり、「正しくない翻訳」のイメージが強烈にある^^;。
それにしても、イメージ範囲外のものも一応特定しておかなきゃいけないと思うので、そっちから特定すると、
メチャクチャ翻訳その1(機械翻訳とかで、Google翻訳レベルのもの、オランダ語→英語はどうだか知りませんが、現状の英和について念頭においています)
メチャクチャ翻訳その2(機械翻訳とかで、文としては成立しているけれども、ワケワカメなもの)
まるでミコミというものの感じられない翻訳(ケッ、一緒にしないでよ!…という心理がはたらく?)
と、まだあるかもしれないけれども、ここらへんは、まぁ、いいでしょう。
ともかく、これらは、「正しくない翻訳」ですらない。
また、一度切りますね。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 10時27分
ということで、「正しくない翻訳」なわけですが、これは、結構やっかいです。
《読み》の側に問題のありそうな訳文については、
・ 学習文法レベルの理解に問題がありそうな訳文
・ その文書が扱っている内容の知識や理解度のレベルの理解に問題がありそうな訳文
の2つが筆頭ということになりますよね。(ここまでは、機械翻訳でも、志向はされている部分)
その先に、
・ 文章の内容的な展開の流れを読み取れていない訳文
・ その部分の語られ方の目線を読み取れていない訳文
などが来るわけです。(こっちは、機械翻訳という領域で、語られもしない部分でしょう。翻訳者がちゃんとこのあたりを整理できているかどうかも、アヤシイところはありますが。)
また、一度切ります。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 10時35分
次に、《訳文作成》の側に行きますが、実は、翻訳は、ほとんど《読み》のところで決まってしまうのは周知の通りです。
なぜかというと、翻訳というのは多くの場合、当該原文・訳文分野の文章を新たに書き起こせる(翻訳でなくてもということ)翻訳者が翻訳をやっているからです。
ミスマッチな分野の翻訳の場合とか、その分野の文章を書けもしないのに翻訳をやっている場合とかもありますが、そのことを自覚している限りにおいては、対策を講じますから、なんとかはなります。(対策を講じるのも翻訳者のスキルのうち^^;、というか、それこそが基本スキルかもしれません。だって、自分にピッタシの分野や原文執筆者の文章だって、いろいろな内容を扱っているのは日常茶飯なわけですから。)ということで、ここは、ツッコミドコロ満載かもしれませんが、先に行きます。
なので、読者層に伝わる訳文にするという部分は、なかば無意識に行われているのだと思います。(同じことを別のいいかたでいうと、最後の微調整という、とっても重要な作業のところを、とっても意識的に行っているということ。)
ちなみに、機械翻訳の方は、ここは、ほとんど、実質的なレベルということでは顧慮されていないでしょう。
ともかく、訳文作成に関しては、対象読者という部分でも、「正しくない翻訳」というのがあるということですよね。ここは、Buckeyeさんが詳述なさっているとおり、と思います。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 10時46分
他に、《訳文作成》の側に関しては、《読み》の側で書いた、
・ 学習文法レベルの理解に問題がありそうな訳文
にならないよう、訳出言語側でも気をつかうでしょうし、
・ その文書が扱っている内容の知識や理解度のレベルの理解に問題がありそうな訳文
にならないよう、訳出言語側でも同時に気を遣っているのだと思います。
ただ、一番大事なのは、訳文側で、
・ 内容をどう展開するか
・ どういう語りの目線として訳文を構成していくか
という部分だと思います。日本語と英語の場合、かなりかけはなれた言語同士でもありますし、このあたりに意識を配っていないと、(もともと読者がわかっている内容を確認するような気分で読んでいく場合はともかく)、新規かつ複雑な内容が述べられている場合など、ほとんど理解不能になってしまいます。
文章というのは、至るところに、理解の手がかりが埋め込まれているわけですが、その手がかりをどれだけ消さずに訳文をつくれるか……というふうな言い方をした方が、わかりやすいかもしれません。
この部分がアウトなのも、「正しくない翻訳です」
ただし、残念ながら、翻訳者の大半は、このあたりを言語化されたかたちで整理したうえで翻訳を行っているわけではなく、ナントナ~クというかたちで処理しているのだと思います。(未整理であること自体に問題はないですけれども、翻訳技術の継承というところでは、継承不能だと思いますし、機械翻訳との異同についての議論もできないでしょう。)
《読み》の側でも書きましたが、機械翻訳をめぐる議論では、いくつかの文章を読んだり、シンポジウムに参加した限りでは、こういう部分は、ノータッチという印象をもっています。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 10時56分
途中ですが、一つだけ、ツマンナイかもしれないところに、脊髄反射^^;、しておこうと思います。以上書いてきたことは、翻訳作業に関わることがらで、特許翻訳であれ、文学の翻訳であれ、一緒だと思うという点です。
「しかしながら,これは,翻訳者の翻訳行為
とはまったく異質である。翻訳者の側の翻訳行為
はといえば(もちろん翻訳者によって色々異なる
し,特許翻訳と文学の翻訳では大きく異なるけれ
ど,それでもなお),」
http://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/50/12/845/_pdf/-char/ja/
なお、ここで、「これ」というのは「,最近の機械翻訳研究は,(1) 正解は客観的に計算可能なかた
ちで存在する,(2) 言語の計算によってその正解を求めることができる,という枠組み」だと思います(原文を読めばすぐわかると思いますが、一応)。
私は、特許翻訳でお金をいただき、ときどき、特許翻訳の啓蒙的な文章を書いたりしていますが、勉強会にまぜてもらったときに出す課題は、なぜか毎回文学作品だったりします。
なぜか。基本は同じだと思うからです(会話とかまでは、知んない^^;。訳せないし^^;)。
また切りますね。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 11時06分
もちろん、景浦先生も、引用部分最後で「それでもなお」とおっしゃってくださっているわけですが^^。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 11時08分
ひきつづく部分で、景浦先生は、2つのことをおっしゃっています。
・翻訳者は意志決定をする
・正解かどうかは,翻訳者が意志決定をして翻訳ができあがったあとで決まる
うぅぅん、と唸ってしまいます。
「翻訳者は意志決定をする」というのは、」、直前の鈴木道彦さんの引用部分にのっとってだと思うのですが、まとめてしまうと、「訳文というのは、原文の下流に位置するのだから、それが原文よりよいものでなくってどうするんだ!」という議論だと思います。えぇ、いつものアレです^^;。
それはそれでよいのですが、機械翻訳との比較というところでは、翻訳者がやっている作業についてのもっと細かい分析が必要でしょう。
また、「正解かどうかは,翻訳者が意志決定をして翻訳ができあがったあとで決まる」という方も、ほんとなのかな?、と思います。
売れない本が売れないのは、大抵の場合、訳す前から決まっていますし、ダメ訳でも売れるときには売れるのも、訳す前から予測はついているでしょう。
翻訳者が手がける原文と訳文のそれぞれが社会の中において占めている・占めることになる位置がさまざまで、訳文の受容のされ方もさまざまだというのは、それはそれでよいのですが、言語を越える部分に位置する翻訳という作業のその産物の「正しさ」という議論のなかでは、この部分のもつ重みは、ずいぶんと小さいのではないかと思います。なぜかというと、翻訳者は、そうした位置を、翻訳作業に内在化させながら作業を行っているわけで、それは、上述したとおりです。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 11時24分
長くなりましたが、翻訳者は、
「正しい翻訳!」
を求めながら作業していいと思っています。そして、
「正しい翻訳!」
は、たぶんあると思います。
ただ、なにが、
「正しい翻訳!」
だと考えているのかについては、ちゃんと整理しておかないといけないということなんだろうな、と思います。
また、
「正しい翻訳!」
だと思って、ちゃんととるべき手順を踏んで訳した訳文であっても、さまざまな事情で、うぅん、あまりよくなかったかな、ということになることが往々にしてあることは理解しておかなくてはならないし、そうした反省を次に生かすことも、もちろん必要だとは思います。(←これは、いわゆる「誤訳」とは別のこととして。)
※ 「ストライクゾーン」みたいな表現はよく使われますよね。
投稿: Sakino | 2010年7月22日 (木) 11時34分
Sakinoさん、
そうですね、そういう意味では、
「正しい翻訳!」
は存在するし、それを求めて作業していいですよね。
翻訳者同士の議論を見ていると「人間と関係なしに正しい翻訳が存在する」と思っている人が意外なほど多いのですが、それってまさしく、「(1) 正解は客観的に計算可能なかたちで存在する,(2) 言語の計算によってその正解を求めることができる,という枠組みにのっとっている。」であり、それは「正しくない翻訳」なわけで。
これって、翻訳者間における継承・伝承という意味では、どう伝えるのがいいのでしょうね。
投稿: Buckeye | 2010年7月29日 (木) 11時02分
「本が売れる・売れないは、翻訳の良し悪しと相関が強くない」なんだと思います。原著が悪けりゃ売れるはずがありません。で、原著がよかったとき、翻訳は足を引っぱるレベルから原著のポテンシャルを最大限に引きだすレベルまでになる、と。「原著の足を引っぱるレベル」なら不正解、「原著のポテンシャルを最大限に引きだすレベル」なら正解。
景浦先生の話を書籍に適用するならそんなところではないでしょうか。
ちなみに、出版翻訳も産業翻訳も翻訳作業という面では同じだと考えているのは私もです(↓)。
http://shuppan.sunflare.com/kanto_essay/kanto_ind_trans_to_pub2.htm
でも、世間一般というかホンヤクギョーカイの中でも違うと考えている人のほうが多いように思います。
投稿: Buckeye | 2010年7月29日 (木) 11時04分
>同じことを別のいいかたでいうと、
>最後の微調整という、とっても重要な作業のところを、
>とっても意識的に行っているということ。
あれ、この最後、「無意識的」じゃなくて「意識的」ですか? それともタイポでホントは無意識的?
投稿: Buckeye | 2010年7月29日 (木) 11時05分
すみません、ことば足らずで。
「なので、読者層に伝わる訳文にするという部分は、なかば無意識に行われているのだと思います。(同じことを別のいいかたでいうと、最後の微調整という、とっても重要な作業のところを、とっても意識的に行っているということ。)」
と書いたわけですが、調整というのは、下記の(1)と(2)の和であろうかと思います。
(1)セッティング(どういう下準備をしながら翻訳にかかっているかとか、その前の部分の翻訳でいろいろ蓄積してきたことがらとか)やマッチング(誰が誰の文章を翻訳するかとか)という部分で達成されていることがら→調整というところに焦点をあてて考えると、ここは「無意識」?
(2)(1)のうえにのっかったうえで、意識的に調整作業を行っている部分(文中の表現では、「最後の微調整」)→ここは「意識的」?
------------------
こういう流れで、「最後の微調整という、とっても重要な作業のところを、」(つまり(2)を、「とっても意識的に行っているということ」と書きました。
投稿: Sakino | 2010年8月 1日 (日) 13時35分
そういうことでしたか。了解です。
でも、一般的にはどうなんでしょう。本来というかきちんとやれているケースではSakinoさんが指摘されたようなことかなと思いますが、一般的には、意識的な調整作業は行われていないケースが多いように思うんです。また、なにがしかの調整が行われる場合も、それこそ、特許分野ではこういう文章はこう訳すものだ、みたいな定型処理レベルで終わっていることが多いように感じます。
書き手と読み手が見えていないっていうか、見ようとしていないっていうか。
その場合、「(1)セッティング」部分の無意識な調整もきちんと行われなくなってしまうはずで。「(2)(1)のうえにのっかったうえで、意識的に調整作業を行っている部分」があるからこそ、次に向けた「(1)セッティング」がまともに行えるという循環になっているはずですから。
投稿: Buckeye | 2010年8月 3日 (火) 11時14分