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2009年10月20日 (火)

「文脈理解」とは理解しにくいものなのだろうか?

先日、プロ翻訳者同士の勉強会が開催されました。主催者は友人で昨年も今ごろ開催されたものなのですが、今年、私はいろいろあって参加できませんでした。それはともかく。

その勉強会についてはメーリングリストが用意されているんですが、そちらで、Sakinoさん(私と一緒に翻訳フォーラムの共同主宰をしている人)が勉強会時に話された、文章を文脈で捉えるという姿勢が特に勉強になったとのコメントを書かれた方がおられました。

ショックでした。

いや、まあ、私は参加していないわけで、Sakinoさんが従来と大きく違う新説とか大きく進化した説とかを話された可能性もないではないのですが、十中八九、それはないわけで。となると、「いつもの話」があの人(私もよく知っている人です)にとっては新鮮だったわけですね……Tradosや機械翻訳ソフトなどについて警鐘を鳴らすとき、「文脈把握の足を引っぱる」というのが大きなポイントになるんですが、そうか、あの人クラスでも、こういう話をきちんと理解してもらえてなかったのねって思うと……

このエントリーを少しずつ書いている間にSakinoさんからざっと説明がありましたが、やはり、新説が出たわけではないようです。

翻訳の第一段階、原文の解釈では、文脈がわからないと単語がわからない、同時に単語がわからないと文脈がわからないわけで、リカーシブにぐるぐるとループを回して解釈してゆきます。

機械翻訳に関する天動説と地動説、そして解釈学的循環

ちなみに上記ページ、今読むと、1文単位で循環するようにとられかねないことに気づきました。違います。1文単位が一番小さいループ。その上に段落単位のループがあり、章単位のループがあり、文書単位のループがあり、その文書が取り扱う分野単位のループがあるというイメージが正しいと思います。

訳文を作る段階では、どういう単語をどう使うかが決まらないと文脈の流れが決まらない、文脈の流れが決まらないとどういう単語をどう使うかが決まらないと、こちらもリカーシブにぐるぐるとループを回して訳文を構築してゆく必要があります。もちろんこちらも1文単位の循環だけでなく、もっと大きな単位のループが何重にも重なることになります。

翻訳の場合、訳文側の文脈は原文で「大まかに」規定されています。大まかだというのは、原語とターゲット言語で特性が異なるため、細かい部分の流れまで同じにするのは無理だからです。大きな流れは同一だけどさざ波の立ち方が異なるという感じです。

原語と訳語が単語としては対応していても(辞書の見出し語と訳語のように)、文脈との関係まで同一ということは珍しく、その単語から作り出される文脈は微妙に、あるいは大きくずれてしまうものです。だから、文脈との関係で適切な訳語を選ぶ必要があるわけです。「定訳」や「指定訳」で固定されているものはそのまま使うしかないので、それ以外の部分で文脈のズレを修正してあげる必要があります。

そういう作業をしようと思えば、原文側も訳文側も、さまざまな文脈においてどういう単語がどういう風に使われているのか、また、そういう単語がどのような形で文脈を形作っているのかを把握しておく必要があります(こちらもループしますね)。そのような蓄積が十分にあれば原文解釈で先読みもできるし、訳文作成時に最終解と近いものを一次訳で生成することが可能になる場合もあります。逆に、文脈の中で位置づけた単語の把握が十分に蓄積されていないと、ループの回転数を増やす必要がありますし、増やしても十分に収束しないまま終わってしまいます。

そして、文脈に関連づけて言葉を把握する作業をするのはいつがいいかと言えば、我々翻訳者にとっては「仕事をしながら」でしょう。プロとして食べられるだけの仕事をしていたら、仕事以外にそんな時間も余力もない場合が多いはずです。また、こういう作業は量が物を言う世界で、とにかく時間がかかります。あらゆる機会をとらえて貯めてゆくしかないわけです。であれば、仕事という最大のチャンスを無駄にするのは下策だと思います。

プロになったあと、力がつく-訳文の質と訳文を作るスピードの両方があがる-背景には、仕事をしながら無意識のうちに「文脈に関連づけた言葉の把握」をくり返し、このような蓄積ができてくることがあるはずだと思います。

和訳で訳文を作る力をつけるためには「よい日本語をたくさん読みなさい」というアドバイスが昔からよくされます。外国語の力をつける場合にも同じようなアドバイスをよく聞きます。コレ、言い換えると、大量に読むことを通じて「文脈に関連づけた言葉の把握」をしなさいということなんだと思います。

……って、こういう話、もしかすると、わかって欲しい人にはほとんど届かず、もうわかっていて改めて話す必要のない人にだけ理解されるモノなんでしょうか……

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コメント

問題になった「文脈」の一つは、ここは、完全な地の文ではなく、登場人物の声が少なくとも混ざってきこえつづけている箇所ではないの、という箇所。もう一つは、前の部分から特定のモノの説明がつづいている部分ではないの(だから、the ....は、一般的なはなしじゃなくて、特定のそのモノのこと)みたいな箇所。こういう広い意味でのモード/モダリティの読みというのは、他のあらゆる解釈に先んじるとまでいってはいいすぎですが、他のあらゆる解釈のベースになるはずですし、解釈がちがえば、訳のトーンも訳語もちがってきますから。

どっちも、基本の基みたいな頻出パターンだと思うのですが、英和だったりすると、細部に目がいってしまうのかもしれません。もともとパターンとして、あっこれね、というふうにわからないと見えにくいということもあるのかもしれません(今回のは、別に私が出題したわけでもなんでもないのですが、見えて不思議はない課題文だったはずです。いろいろな方のおられる勉強会ですから、訳文もいろいろなわけですが、これは、文脈から確認しておかないとまずいと感じたものだから、文脈文脈と何度も口に出ちゃったのかもしれません。)

ともかく、そういうのを突然第二言語でやるのは無茶で、母語できちんと整理できていないとダメということだと思います。でもって、そのうえで母語(日本語かな)と英語なら英語との扱いのちがいも、ある程度パターン化してアタマに入っていないとまずい。各用例の整理は、それからということになるものとも思います。

投稿: Sakino | 2009年10月22日 (木) 14時37分

そういう、モード/モダリティ/目線(耳線も^^)というような意味での文脈というのは、母語では意識せずに脳内処理されちゃってる部分です。翻訳者って、基本的に文章を読める人がなりますから、そういうことが無意識にできてしまうわけです。その意味で、「文脈理解」というのは、やっぱりむつかしいんだと思います。

ただ、そういうのって、気づきの問題なので、指摘さえしてやれば、小学生でもわかるはなしのはずです。翻訳なんていう急にスピードが落ちる作業をしないのであれば、文章を読めてるような人は、基本的には気づけるはずのことがらだとも思います。

それがわからなくなっちゃうというのは、やはり、翻訳という作業に入る前に、ある程度、文脈として読み取らなければならないことがらについてのいくつかのパターンを、母語の側で整理して身につけておかねばならないということなのだろうな、と思いました。

投稿: Sakino | 2009年10月22日 (木) 14時49分

翻訳の場合、普通と違う制約がいろいろとかかってしまうので、ふだんは無意識に処理できていることができなくなったりするんですよね。

だから、まず、ふだんは無意識に処理している部分を言語化して意識的にできるようにする必要があるのだと思います。次に、くり返し練習し、無意識でできるまで体にたたき込む。そこまでできれば「自分の引き出し」になり「自動運転」になるということで。

作業環境のほうに話を持って行くと……作業環境が文脈理解の足を引っぱるものだったとしても、たぶん、自動運転まで行っちゃった人はなんとかなるんですよね。逆に、言語化ができていない人の場合、作業環境に足を引っぱられていることに気づけない。おそらくはいつまでたっても自分一人では気づけない。具体例で指摘されなければ、概念として文脈どうこうと言われても気づけない。そんな感じなのかもしれません。

余談ですが、私の場合、自分は自動運転になっていると思うので、どういう作業環境でもそれなりになんとかなるんじゃないかとは思います。でも、「今現在、『できている』と判断している」からといって、10年後、「10年前に『できていた』と判断する」とは限らないわけで。大事な部分で足を引っぱられるものは、使わざるを得ないにならない限り使いたくないなと思います。

投稿: Buckeye | 2009年10月22日 (木) 21時41分

「自動運転」というのは、この表現がもろに示しているように、要するに、整理(分析&納得)→習熟の過程を経て身につくスキルなわけですよね。

作業環境に関していえば、自動運転のスキルを伸ばせるようなものでないとまずい、ということなのだろうと思います。そのためには、整理(分析&納得)が可能でないとまずい。そしてその前に、整理(分析&納得)というのがどういうプロセスなのかを理解できていないとまずい。

若い人たちには、先達の背中をみながら、先達がどうやって整理つけて自動運転の技を磨いているのかを折に触れて学び取ってほしいし、熟練者は、ちゃんと背中を若い人に見せてあげてほしいな、と思います。


(なんだか同じような用語が順番を変えて出てくるだけの妙な文章になってしまいました^^;)

投稿: Sakino | 2009年10月23日 (金) 00時50分

> ふだんは無意識に処理できていることができなくなったりする
> 自動運転

Buckeye さんご自身が以前お書きになっているように、この辺の感覚はスポーツの修練と同じってことですね。で、スポーツでも「整理(分析&納得)→習熟の過程」というプロセスがなくては練習が空回りする。

トレーニングは自分で積むしかありませんが、勉強会などがそういう「分析&納得」の場として機能できれば(提供する方も受ける方も)理想的だと思います。

投稿: baldhatter | 2009年10月23日 (金) 08時36分

  具体例がないとお経みたいにきこえるでしょうから(お経が途中でビートルズに化けてもよいのですが←時節柄のご供養^^;、忘れてください)、作例ですが、一応、1つだけ。
  The article describes ........... Jjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjj. Kkkkkkkkkkkkkkkkkkk. Llllllllllllll. Mmmmmmmmmmmmmmm. Nnnnnnnnnnnnn. Oooooooooooooooooooo.というふうに続いていたときに、ざっくりいうと、英語では、形式だけでは、describeされた内容の描写がどこまで続くのかはわからないわけです。ちょうどうまい具合に段落でも切っておいてくれればいいけれども、そうなっていないときには、内容から判断するしかない。この判断は、実は、結構難しくって、たとえ慣れている分野のなじみのある内容であっても、全神経を集中していないとできないこともある。つまり、Mmmmmmmmmmmm.の文までなのか、Nnnnnnnnnnnnnの文までなのかを、読み手(翻訳作業者)が判断をしないといけないのだけれど、それは、もう、この文であれば、The article describesまで見たときに、あぁ、これから部分で、どこまでそのdescribeのモードが続くのかをちゃんと見てなきゃいけないなーというふうに、アタマの用意が自動的にできないといけない。それが「自動運転」なわけです。(訳す=言語を往き来する、なんていう複雑怪奇な作業をしないのなら、そんな集中してなくても、テキトーに読んでわかった気になれちゃうわけですが)。そして、「自動運転」ができるようになるのに先だって、何度も何度も、似たようなケースや、かたちはちょっと似ているけれども該当しないケースや、これは超のつく応用編だよね、といったケースで、「整理(分析&納得)」を繰り返して、習熟しないといけない。ここまでが《読み》。
  ところが、日本語の方は、これまたハナシが全然ちがう。英語側の文に上書きするかたちで説明すると(訳すときに上書きするということでなく説明の便宜上)、みなさん数個~100個くらいは「自動運転候補」として基本のかたちがアタマに入っているのだと思いますが、その一つは(例だから、英語側と差のあるものを挙げているわけですが)、「The articleには、 kkkkkkkkkkkkkkkkkk、lllllllllllll、mmmmmmmmmmmmm、nnnnnnnnnnnnがdescribeされている」と一文にまとめてしまうというもの。こういう「候補」が、いくつ、どのように「引き出し」に入っているか、それまでとちがったパターンと遭遇したときに、どういうふうに整理して引き出しに収納できるかが、おそらくは勝負どころなのだと思います。原文が複雑で内容が難しかったりしたら、引き出しに入っているパターンが多くないと、もう、処理不能になっちゃう。
  こういうのは、まぁ、ケースもケースですし、説明されれば「百も合点二百も承知」と思いがちなのですが、これがなかなか^^;。まず、うえの例では、英語の6個の文が1つの「かたまり」を構成しているわけで、最初にきちんと方針が決まっていないと、3つめくらいの文までで、describeが前に出てきていたことなどすっかり忘れて、まず《読み》の判断にぶれがではじめる。もう、そうなってくると、言語を往復するたびにはなしがおかしくなってきてしまうことになる。
  一つだけですが、具体例をあげておきました。

投稿: Sakino | 2009年10月23日 (金) 10時31分

baldhatterさん、

そうですね。スポーツと同じだと思います。

ときどき突き抜けた人がいて、たいして練習してもいないのにできるようになっちゃったりするあたりも含めて。

勉強会を「分析&納得」の場にするというのはそうですよね。ときたま開く勉強会ではそれが限界とも言えるかなぁ。トレーニングというのは継続的にやる必要がありますからね。

投稿: Buckeye | 2009年10月23日 (金) 16時36分

Sakinoさん、

>説明されれば「百も合点二百も承知」と
>思いがちなのですが、これがなかなか^^;

このあたりも、結局、頭で理解しても(した「つもり」では)ダメということなのでしょう。

投稿: Buckeye | 2009年10月23日 (金) 16時36分

日垣隆『ラクをしないと成果は出ない』(大和書房)では、世の中には3つのレベルの人がいるとしています。

言語化されていなくても、やればできてしまう天才。
言語化され、教えてもらえばできる人。
言語化され、教えられてもできない人。
(P192)

そして具体例として、安藤美姫選手の例を挙げています。彼女が14歳で4回転ジャンプを跳んだとき、その理論を説明できなかったはずだ、と日垣氏は書いています。しかしその後、「なぜ安藤美姫は4回転ジャンプができるのか」が言語化され、顎や手や腰の使い方などのノウハウをコーチが教えるようになり、中学生でも3回転半ができるようになった、と(尚、こうしたことが事実として正しいのか、私は知りません。あくまでも前掲書からの受け売りです)。

日垣氏はこうした事実を踏まえ、知恵を言語化し、ノウハウとして分かち合うことを推奨しています。日々の鍛錬は各自でしかできませんが、どのような練習をすれば何が鍛えられるかといった情報を共有することはできると思いますし、する価値のあることだと思います。

投稿: バックステージ | 2009年10月23日 (金) 20時36分

日垣氏とどうもソリがあわないということもあるのですが、どうも、ちがうような気がします。

どこがちがうのかというと、これも昔からよく言われることですが、「翻訳に寺山修司なし」であります^^;。今の人は、寺山修司といわれてもパープリン(あぁ、これも死語だ!)でしょうから、あられもない解説をしておきますと、寺山修司は高校生で17際だったときに颯爽とデビューしたわけです。つまり「天才」。(私は、これを、SF批評のYさんから教わったのですが、そのときは30代前半でありました。で、17際の寺山に嫉妬しましたよ^^;)。

たぶん、安藤美姫選手も天才なのでしょう。それを、分析能力など備えようものない本人ではなく、コーチたちが解析する……たぶん、そういう構図なのではないでしょうか。

翻訳はちがいます。文章作成において天才であることはかまわないけれども天才ではないかもしれない人間たちが、一歩一歩技を磨いていく、そういう世界だと思います。もちろん、技の磨き方という意味での天才は結構な率でいるような気がします。

そういう人間たちが、自分が編み出した技について、自分で整理(分析・納得)し、その知恵をお互いに交換する、それが、翻訳コミュニティの醍醐味だと思います。つまり、徹底した技の内部観測がキモだということです(私は生物出身ですから内部観測という用語を使いますが、社会学出身とかの方は、参与観察がお好みかもしれません)。

投稿: Sakino | 2009年10月23日 (金) 21時47分

トリプルアクセルを含む4回転の世界は実感としてはわかりませんが、2回転の世界と3回転の世界はベツモノでした。3回転の飛び方で2回転は飛べる。でも逆の2回転の飛び方で3回転は飛べない。1回転の世界を引きずった飛び方でも2回転なら飛べるけど3回転は飛べないんです。この間にはパラダイムシフトがありました(もちろん、1回転と2回転の間にもパラダイムシフトがあります)。今は、2回転に入る時点で3回転系の飛び方を教えているはずだと思います。そうすれば、2回転→3回転でパラダイムシフトが起きませんから。

フィギュアスケートのトレーニングが根性モノから科学へと移り始めたのは、ちょうど私が選手をしていた時期でした。ジャンプの飛び方を研究するため、上手な選手から下手な選手まで、同系列のジャンプを飛ぶ様をビデオに収めて比較検討するなどが始まったんです。それで思いだしましたが、初期の研究ビデオが残っていれば私のジャンプも映ってるはずです。トリプルを軽々と飛ぶ選手(伊藤みどりちゃん)、トリプルがぎりぎりで飛べる選手、ダブルはきちんと飛べるがトリプルは飛べない選手(私)、ダブルがまともに飛べない選手(クラブ後輩)……という感じで撮影をした記憶があります。

それはともかく。

フィギュアスケートが「本人ではなく、コーチたちが解析する」構図であるのは確かです。そのほうが効率、格段に高いですし。自分の感覚と実際の動きって大きくズレることが多いから、ビデオでも撮らないと自分じゃ解析のしようがありません。それよりくり返し見るコーチのほうが細かな点にまで気づくことができますからね。

でも、ですね。どう飛べばいいのかが確立され、その飛び方に向けたコーチ法がそれなりにできたとしても、最後は、選手がくり返し練習し、自分の体の感覚として身につける必要があるんです。ここで問題になるのが、上述のとおり、体の感覚と現実の動きがズレること。だからこの部分は、選手とコーチが二人三脚で進める必要があります。

翻訳の話に戻ると……翻訳では「徹底した技の内部観測がキモ」という点も「その知恵をお互いに交換する、それが、翻訳コミュニティの醍醐味だ」という点も、同意です。

と書いてきてふと思ったんですが、内部観測力はどうしたら養成できるんでしょう。

内部観測力を持つにいたった人は自らの中に分析力を備えたコーチと選手、両方がいるから、他人の技を取りいれることもできますよね。でも、内部観測力を持つにいたっていない人、まだ不十分な力しか持たない人は、他人の技を取りいれられません。あるケースについて「そうかぁ」と納得しても、少し変形されたケースに応用が利かないわけで。

「背中を見せる」以上のことはできないんでしょうか……

投稿: Buckeye | 2009年10月25日 (日) 08時03分

翻訳の場合、なぜこう訳したのか説明できなければ、訳文そのもののできも十分でないという側面があると思います。

では内部観測力はどうしたら養成できるかというと、考えて訳すことに尽きるのではないでしょうか。原語の構文や語の用法、訳語の意味などを突き詰めて訳すことが、自分の中のコーチを育てることにつながるのだと思います。

そして、内部観測力を持つ人が翻訳作業における頭の中、どのように原文を読み訳文を決めたかのプロセスを言語化すれば、感じる人は感じて、自分の翻訳過程に取り入れようとするでしょう。

日垣氏に倣って3つのレベルに分けると、以下のようになるでしょうか。

背中を見せればできる人。
頭の中を見せればできる人。
頭の中を見せてもできない人。

投稿: バックステージ | 2009年10月25日 (日) 19時08分

お二人のコメントを、なるほど、と思いながら読みました。

内部観測力も、伝える力も、まだまだです。

投稿: Sakino | 2009年11月 1日 (日) 21時59分

確かに「わかって欲しい人にはほとんど届かず、もうわかっていて改めて話す必要のない人にだけ理解されるモノ」だと思います。「文脈理解」とは、般化するなら「言語理解」ということであり、言語理解を「理解する」とは己の言語活動をメタ視することです。そのような心の状態があることを知っている(そしてその状態を操作できる)人は、「文脈理解」を既に理解しています。しかし、そのようなメタ状態があることに気づいていない人は、「文脈理解」という行為を操作の対象として理解することありません。実際に翻訳を行う中で視点の変換を多く経験することでメタ視の心の状態が徐々に学習され、「文脈」が対象物として実体化していくのでしょう。

投稿: Euascomycetes | 2009年11月 3日 (火) 20時06分

Euascomycetesさん、

やっぱりそう思われます?

「徐々に学習」といっても、自助努力だけに任せればできる人とできない人が出てきますよね。このうち、自助努力だけだったらできなかったであろう人になにがしかのトレーニングを施したら学習できるなんて話、ないでしょうか。私としては、ウェイトトレーニングのように、外部から強制して視点の変換をやらせたらどうかななんて考えてはいます。

投稿: Buckeye | 2009年11月 3日 (火) 22時09分

遠回りになるかもしれませんが、我々が漠然と理解している「視点」についてもっと深く議論し、その中味を充実させていくことで、「ウェイトトレーニング」をより具体的なプログラムにすることができるのだと思います。「視点」は翻訳に留まらず、言語コミュニケーション全般に関係する問題であって、「これからの日本語をどう作り上げていくか」というような問題とも関係しているはずです。

投稿: Euascomycetes | 2009年11月 3日 (火) 22時36分

それは言えてますね。「視点」とか「文脈」とか、イマイチ言語化できていないというか、分からない人に納得してもらえるレベルに到達していない感じがありますものね。

投稿: Buckeye | 2009年11月 5日 (木) 06時25分

翻訳は「視点」を意識化する仕事だと思います。しかし、言語間のメタな心の状態を各人が各人なりに感じ、それを経験値のようなものとして何となく積み重ねている。まだそんな状態で、「視点」や「文脈」といった概念を(翻訳者の立場から)言語化する段階に至っていない。両側で言語を扱っているのに、その中間状態が言語化できないのは奇妙にも思えますが、それ自体が伝えるべき本体でないのだから、そうなるのはある意味当然のことかもしれません。

我々が求められているのは言葉を言葉で語ることです。例として、上のSakinoさんの「The article describes ........」を考えてみます。これは、現象面では「ピリオドは文法の区切りであって、意味の区切りでない」と説明できます。この現象を抽象して言葉にすると「延長」(Extension)というキーワードにたどり着きます。逆に、「延長」をタイトルにして同様の現象を列挙する、必要ならそれを別のキーワードで補足する、そんな作業が必要なのでしょう。こうして(たぶん、あまり言葉が多くならないよう抑制的に)キーワードを定めていけば、たとえば「英語と日本語における延長の有り様の違い」といった議論を、どこか共通の言葉で語られる世界に収斂させることができるはずです。

まあ、地道な積み重ねが必要だということですね。ふぅっ....

投稿: Euascomycetes | 2009年11月 5日 (木) 12時25分

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