機械翻訳に関する天動説と地動説、そして解釈学的循環
訳語も訳文も、文脈に置いて初めて意味があるし、文脈がなければ単語も文も訳しようがない……私は、文脈至上主義とでもいうべきこんな考え方を基本としています。だから、文脈からずれた訳語を提示してきたりする機械翻訳は、翻訳支援のツールとして使うと足を引っぱられると思うわけであり、このブログの過去のエントリー、『翻訳ツール-パソコンと人間の分担』でも、考える必要がない機械的な操作はパソコンに担当させたほうがいいが、考える部分は人間が担当しなければならないと言っているわけです。
このあたりについて、なかなかによくまとめられた記事があります。もう15年も前に書かれたものですが、内容としてはまったく古くなっていません(というか、古くなりようがないと思います)。
そして、最近、もっと上手にまとめられた記事が出ました。
テキストの一部を理解するには全体を理解していなければならないし、テキストの全体を理解するには部分を理解していかなければならない
原文中に知らない単語が出てきたら、とりあえず辞書で意味を調べます。いくつかの意味の中で、文脈に合うもの(つまり全体の趣旨に即したもの)を選び出したり、そのような表現を考え出したりします。しかし、その単語の意味を知らない段階で考えていた全体の趣旨というのはあくまで暫定的なものであって、この単語の意味を理解の中に溶かし込んだ段階で、全体の趣旨をさらに明確に把握できるようになります。私たちがテキストを解釈していくのは、このような循環的な作業の繰り返しです。
そうそう、そうなんです、「循環的な作業」なんです。リカーシブでぐるぐるとループが回るイメージ。そうやって無限に回転させると、全体も部分も変化しなくなる。そうなれば「全体の翻訳が完成」。現実に無限回ループさせるのは不可能なので、変化が小さくなったら完成ってことにするわけですが。
岩坂さんの連載、実は少し前に書かれていることを知ったんですが、どれもよくまとまっています。私のような理系人間とは異なり哲学系の方だからか、もやもやしてうまく説明できなかったところをスパっと説明されていたりします。
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