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2008年11月29日 (土)

ほんやく互学会

昨日(2008年11月28日)、知り合いが主宰した「ほんやく互学会」という勉強会に出席した。分野はさまざま、キャリアにも幅はあるが出席者は全員、プロの翻訳者。年齢は、30~50歳というところか。参加者から提案された課題や主宰者が提案した課題の訳文を事前に提出し、それを題材にああだこうだと議論をした。5~6時間、ぶっとおしで(冒頭、別件の発表が二人からあった分を含む)。

10年ほど前に翻訳フォーラムで盛んに行われていた討論のオフライン版という感じ。

ああでも、勉強会というのはもともとオフラインで行われていたはずなので、私の感覚がちょっとずれていると言うべきなのかもしれない。

オンラインだとどうしても時間がかかるが、オフラインだとどんどん話が進むのがいい。また、自分の中でまとまっておらず「ほら、なんつーか、あんな感じとかってあるじゃん。わかる?」みたいなわけのわからない状態でもある程度話が進められるし、やりとりの中で考えがまとまっていったりする。ブレインストーミング的にいろいろなアイデアを出したりするのも、オフラインのほうが圧倒的にやりやすい。

逆に、オンラインならすき間時間を使って少しずつ話を進められるが、オフラインだとわざわざ集まらないといけないのが大きなデメリット。今回、なんと富山から参加した人がいたが、いろいろな意味で大変だっただろうと思う。オンラインなら富山だろうが地球の反対側からだろうがまったく同じ条件で参加できる。

それはさておき。

とにかくおもしろかった。いろいろな考え方が出てきて勉強になった点も多い。名前は違うが去年も同じようなことをしたし、主宰した友人はときどきやりたいと言っていたので、そのうちまたあることだろう。

同時に大きな問題も感じた。

勉強会の進め方とかそういうことではない。翻訳業界の現状というか、翻訳者の現状というかについてだ。

冒頭、どの翻訳がいいと思うか挙手で選んだのだが(誰が訳したのかはわからないようになっている)、これが割れる。割れすぎる。割合にいい評価が集中した課題でも20人中5~6人。割れた課題など最高でも3人。

集まった訳者のレベルに多少の開きがあったのは確か。他の翻訳者の実力(訳文)を正しく評価できるのは自分の実力+αまでという問題があるので、レベルがある程度以上開くと評価が難しくなる。

実力がある程度以上開くと、みんな上手だなぁと思うだけになって細かい評価ができなかったりするし、それどころか、自分に理解できない方法で上手に訳してあるとこんなの間違いだと思ってしまうこともある。

じゃあ、お互い、この人はかなりできると思っている人だけを見れば意見がそろっているかというとそんなこともない。ちなみに私とSakinoさんはかなりかぶった。2課題は同じ訳文を選んでいたし、残りも、Sakinoさんが選んでいたものは私がどちらを選ぼうかなと悩んでやめたほうだったりした。でも、私とSakinoさんしか選ばなかった訳文もあった。また、私は訳文に◎、○、△、×をつけておいたのだが、この人はかなりできると思っている人が、私が×をつけた訳文を選んでいることも少なくなかった。もちろん、私の評価が正しく、×をつけた人はきちんと評価する力がなかった……などと言えるはずがない。逆である可能性を否定できる客観的材料など、かけらもないのだから。あるのは、今までの仕事で培った自信だけであり、それならほかの人たちも持っているのだ。。

一定レベル以上の訳者の間でさえこれほど評価が割れるのでは、ソースクライアントにおける評価が割れるのも当たり前。それどころか、「翻訳の品質を評価するのは不可能」という考え方が正しいとする傍証にもなりかねない状況だ。

実は上記は、同じ方向で一緒に帰った人とした話。これが大きな問題であること、また、もう少し検討してみるべきだということで意見が一致した。じゃあ具体的にどうすればいいかというと、いくつかアイデアは出たがコレだというレベルには至っていない。分析の第一歩として、まずは、各人がどこをどう評価しているのか、みんなの頭の中をのぞいてみる必要があると思うのだが……さて、どうすればいいのだろう。まさか缶切りで開いてみるわけにもいかないし(それぢゃホラーだ^^;)。

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コメント

ああそうだ。

票が割れた課題は、一般的にいったらかなりいいと言われるであろう訳が多かったのも確か。だから、「合格点の翻訳はどれか」ということで調べるなら、特に訳者のレベルがそろえばそれなりにそろった回答が得られたのかもしれない。

このあたりも、今後、検討するチャンスがあったら調べてみたいポイントだ。

投稿: Buckeye | 2008年11月29日 (土) 21時50分

勉強会ではありがとうございました。参考までに、私の評価基準を書いておきたいと思います。

私はまず、誤訳(正確に言えば「私が誤訳と思う箇所」)がある訳文を×にしました。後は

私なら選ばない訳語を使用している △
私と同じ訳語を使用している ○
私がうならされた訳語を使用している ◎

としました。私の評価法は、全体より部分を見てのものです。

ただ誤訳というのは指摘されれば簡単に修正できるものであり、一つでも間違っていたから×というのには抵抗があったのも事実です。

また今回の投票は訳文の検討の前に行われたものですが、『十二人の怒れる男』のように、検討後だと票数が違ってくるかもしれません。少なくとも私が今から投票し直すとしたら、△○◎を付け直すと思います(それだけ私が確固たる価値観を持っていないということでしょうが)。

以上です。ご参考になりましたら幸いです。

投稿: バックステージ | 2008年11月30日 (日) 14時55分

そっか、それぞれの人からどんな方針で評価しているかを聞き、それについて討論するだけでもある程度、見えてくるものがありますね。それをまずやってから訳文ごとに評価とその理由について話しあう……かな。いいヒント、ありがとうございます。

ちなみに私の場合は、一言にまとめれば「そのまま使えるかどうか」で評価しました。大事なポイントを誤訳しているものや読者を変な方向に持っていってしまうおそれが高いもの(実質的な誤訳)は×、うるさいことを言ったら細かい誤訳があると言えるかもしれないが大筋を見失わずにすむものは△、かなり完成されており、それ以上、完成度を上げるのは半分、好みの範囲に入ってくるかもと思えれば○。◎は相対評価で、○の中で一番、完成度が高かったもの。

私は全体的な流れ(課題部分だけでなく、その前後を含めた全体の流れ)を重視するので、今回の課題でいえば3なんかはほかの人と大きく意見が異なる傾向があると思います。

投稿: Buckeye | 2008年12月 1日 (月) 09時59分

Buckeyeさん
「今回の課題でいえば3なんかは」は、たしかに。構成は、最重要項目ですから(だって、構成を読み取れないで、きちんと文意を読み取れるわけはないのだし)。たとえば、文章のどまんなかから切り取ってきた部分の訳を評価するときに、まぁ、評価軸は人それぞれなんでしょうけれども、私は、前の部分とちゃんと続くか、というのが、評価の第一項目になります。ちなみに、この点を評価に入れるかどうかって、すごく大きいのだと思います。
 私の評価のしかたは、いつも単純で、チェックポイント(構成>各部分<文体への自覚度)について決めておいて、減点のなかったもの同士を比べるというやり方。なので、各訳文のチェックポイントに外れた箇所にマークがついていて、あとは、◎と○しかついてなかったりします。ちなみに、<や>は、配点の大小です。文体への自覚度は、出典に即した文体>実験的文体>漫然と普段の調子でやってるとおぼしき文体、という評価です。
 うぅん、こういうはなしを、次は、ちゃんとしようと思います。

投稿: Sakino | 2008年12月 1日 (月) 23時11分

やっぱり、Sakinoさんと私は評価軸が似てるんですね。っていうか、方向性はまったく同じ。違いは、私のほうが若干無自覚に(^^;)評価していたってことくらいかな。ほら、アレだよアレってレベルかきちんと言語化できるかという違いは、いろいろな意味ではっきりと違いがありますからここはやはりけっこうな違いだったとは思いますが。

3番の課題は、たまたま、無自覚に訳すと文脈無視になりやすい形だったという意味で、とてもいい課題だったのかもしれません。何も考えず漫然と訳してもそれなりになっちゃうときはなっちゃいますからね。

投稿: Buckeye | 2008年12月 2日 (火) 15時19分

ちなみに、チェックポイントを決めておいてから評価するって、舌を巻くような「うまいやり方」や「うまいすり抜け方」を見逃さないうえでも、いいのかな、と考えています。「おぉっ」とか「うまっ」というところにも、同時にマーキングできますから。でもって、チェックポイントにしてなかったところに「おぉっ」とか「うまっ」(それと「あれれ?」)がでてきたら、それって、自分がちゃんと自覚できていなかったポイントだってことになりますよね。これが、結構あったりして^^;(←まじに、修行が足りねーって思いました)。

「評価」という表現は、今回はたまたまそうなっていたので使っているわけですが、普段は、内容的には、「検討」とか「勉強」とか言ってきた内容のような気がします。)言い方自体に全然こだわりとかないのですけれども。

投稿: Sakino | 2008年12月 2日 (火) 17時03分

うまく行ってる場合は何をどうやってもうまく行ったりするわけですが、何かがうまく行かなかったとき、きちんと言語化できていないと対応できずにコケたりするんで、言語化できるレベルまで自分のものにしておくのは重要ですね。

評価というのも、ふだんは、自分の訳文の検討であったりチェックであったりするわけで、ホント、言い方はどうでもいいと私も思います。

投稿: Buckeye | 2008年12月 2日 (火) 17時19分

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