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2008年8月15日 (金)

特別手記 産業翻訳者へ-わが脱サラ顛末記

イカロス出版『通訳・翻訳ジャーナル』1999年12月号p.34~37に掲載された記事です。

特別手記 産業翻訳者へ-わが脱サラ顛末記

■サラリーマンからフリー翻訳者へ
~予定していなかった転身~

◎長男の誕生、それが会社を辞めるきっかけに

2年ほど前、12年近く勤めた会社を退職し、技術・実務翻訳者として独立した。会社の同僚や先輩、友人たちも驚いていたが、一番驚いたのは、ある意味、自分自身だったと言える。大学を卒業して就職したときも、その後のサラリーマン生活でも、まさか自分が定年前に退社することがあるとは、まして、独立するなどとは思ったこともなかったからだ。

そんな、平々凡々のサラリーマン生活を定年まで続けるはずだった私が、30台後半で退社、独立することにした直接のきっかけは、長男の誕生である。夫婦とも組織勤めで、当時、嫁さんは勤務地が遠く、私は夜遅くまでの業務……これでは保育園の送り迎えもままならない。どちらかが組織勤めをやめるか、または、家の近くで残業もない会社に転職するか……いろいろと検討した結果、私が退社して翻訳者になることにしたわけである。

このように、私は、もともと翻訳者を目指していたわけでもないし、翻訳の勉強をしたこともない。だから、翻訳者となるための勉強のノウハウなどはよく分からない。この記事では、実際に仕事を始める段階から一人立ちするまでの私の経験やノウハウを紹介したい。

■仕事の始め方
~翻訳会社へのアプローチ~

◎会社勤めであることは翻訳会社に包み隠さずに堂々とアプローチ

翻訳の仕事を始めるときに、まずアプローチするのは翻訳会社である。翻訳業界は、新規参入する個人にとって非常にありがたい業界である。理由は、クライアントから仕事を受注して登録翻訳者に発注するという、いわゆるエージェント機能を翻訳会社が果たしてくれるからだ。

自分の能力がプロ翻訳者として通用するレベルにあるかどうかは、翻訳会社のトライアルを受けてみればはっきりする。トライアルに合格して登録翻訳者になれば、営業などの手間をかけずに仕事を受注することができる。自分が得意とする分野の仕事を取り扱う翻訳会社は、年に何回か発行されるムック本の巻末にある翻訳会社リストで探せばよい。

翻訳会社としては、登録翻訳者が専業でなければならないということはない。翻訳者として有能であれば、サラリーマンでもかまわないのだ。実際、私も、独立前に数社のトライアルを受けて合格し、一時期、会社員と翻訳者の二足のわらじを履いた。サラリーマン→翻訳者というルートでは、しばらく二足で経験を積み業界における自分の価値を見極めることにより、リスクを最小限に抑えられる。翻訳の勉強や仕事を始めたばかりで仕事量が少ない間は、サラリーマンの給料で食べていけるし、最終的に翻訳者で食べていくのは難しそうだと判断すれば、サラリーマンをやめなければいいのだ。

サラリーマンをしていても、翻訳会社へのアプローチは基本的に同じだ。ムック本巻末のリストから得意分野を取り扱っている会社をリストアップしてトライアルを申し込んでいく。「経験~年以上」という条件がついていたり、登録翻訳者の募集はないとなっていても、業務で蓄積した専門知識というセールスポイントを押し出せば、トライアルを受けさせてくれることが多い。いい翻訳者の確保は翻訳会社にとって死活問題だから、門前払いするには惜しい人だと思わせればしめたもの。あとは、トライアルの出来次第である。

なお、二足のわらじでは、勤務先に副業がばれないように細心の注意を払う必要がある。たいがいの企業は副業を禁じているか、明確に禁じていなくともいい顔をされないからだ。

しかし、翻訳会社に提出する履歴書などは、二足だからいって勤務先名などを隠す必要はないと思う。むしろ、ここでこんな仕事をしているということがセールスポイントになると考え、私は、勤務先なども明記したものを提出した。翻訳業界には二足のわらじを履いている人が大勢おり、翻訳会社も慣れているので、勤務先に仕事の依頼の電話をしてくる心配はまずない。ただし念のため、勤務先の電話番号は教えない方がいいだろう。また、連絡方法がどうしても特殊になるから、電話番号の横に明記しておくことも大事である。私は、「携帯電話の留守電に連絡してくれたら、なるべく早く折返し電話をする」としていた。

上記以外に、@nifty内のフォーラムにある自己登録制の求職データベースも利用した。このようなデータベースを見てアプローチしてくる会社もけっこうあるのだ。また、翻訳関係で知り合いとなった人から紹介を受けたこともある。

■二足のわらじ
~隙間時間の徹底活用とスピードアップ~

◎通勤時間と昼休みの2時間を翻訳時間に充てる

二足のわらじで会社の仕事と翻訳をするとなれば、翻訳の時間をどうやって捻出するかが大問題となる。発注側は、兼業だからと甘えさせてなどくれない。翻訳者は翻訳者なのである。だからといって帰宅後や週末を全部つぶしたのでは、体力面でも家族との関係でも無理が出る。私は、隙間時間を徹底的に活用した。

私の翻訳時間は、通勤電車の中と昼休みの1日合計2時間程度。これで、1日10ページ程度(英日。仕上がり日本語400字換算)の仕事をした。通勤電車は、朝早く出勤したり始発駅で1列車待ったりして座席を確保し、ノートパソコンを膝にのせて仕事をする。昼休みは、会社の人が来そうにない喫茶店で仕事を続ける。ホームや乗り換え電車で座れない時間には、打ち出した翻訳原稿の読み直し、赤入れをする。

兼業では、スピードが命である。翻訳スピードが遅ければ、会社と翻訳の仕事に追われて遊ぶ暇も寝る暇もなくなる。そもそも、仕事が取れるかどうかも怪しい。1日1ページや2ページずつ訳して間に合うほど長い納期の仕事など、産業翻訳ではまず存在しない。せめて、1日数ページ以上はこなせるように工夫をする必要がある。

能率を高める方法は、いろいろある。

パソコンとソフトを徹底的に活用する。車内翻訳者では紙の辞書は基本的に使えないので、電子辞書をノートパソコンに搭載して利用する。ソフトは、動作の軽いエディタをなるべく利用する。エディタの機能を活用したり、可能ならマクロプログラムを作成して、たとえば、キーを3回たたく操作を2回や1回ですませられるようにする。原文をOCRでテキストデータに変換しておき、マクロを利用すれば、キーを一つたたくだけで複数の辞書を引くことも可能である。普通に電子辞書を引こうとすれば、ソフトの切替に2~3回、そして、単語の入力に数回から十数回、キーをたたく必要がある。

日本語入力も工夫する余地がある。まず、利用する日本語入力ソフト(MS-IMEとATOKが多いだろう。私はATOKを使用している)を、自分の好みに合わせて設定する。入力方法でも違いが出る。私はかなのブラインドタッチで日本語入力を行う。ローマ字よりもキーをたたく回数が少なくなるからだ。また、よく入力する単語は、短縮形で辞書登録をしておく。たとえば、私のパソコンでは「せと」と入力して変換すると「発電所」となる。これは、「Power Station」の頭文字の位置の日本語キーを短縮読みとして登録してあるからだ。自分のミスタイプを修正する単語登録も大事だ。私は「あるる」を「ある。」と変換するように登録している。これは、「。」の入力に必要なシフトキーが遅れて、ついつい「あるる」と打ってしまうことが多いためだ。

自分の専門に近い仕事に集中する。車内翻訳者では、各種資料を参照しながら翻訳をすることは無理である。基本的なところはすべて頭に入っている自分の専門分野に集中しないと、内容理解が曖昧なままに先に進まなければならなくなり、結局、後から多大な時間をかけて直さなければならなくなったりする。打診のあった仕事分野が専門から離れすぎていたら、その仕事を断る勇気も必要である。

これらはすべて、専業に移行しても大きな武器になる。スピードが速ければ「無理をきいてくれる翻訳者」として重宝されるし、第一、レートが同じであれば、スピードが速くて処理量が多い方が収入は増えるのだ。

なお、二足のわらじの時期、翻訳の仕事が入ると本業のサラリーマンとしての仕事の手を抜きたくなるかもしれないが、手抜きは禁物である。翻訳専業とならずにサラリーマンを続ける可能性だってある。また、最終的に翻訳専業となった場合にも、サラリーマンとしての仕事をきちんとやっていればこそ、「あいつに仕事を回してやろうか」という話が出てきたりするものだ。退職が決まった後でも、最後まで仕事はきちんとすべきだと思う。

■ステップアップはパソコン通信で
◎情報の宝庫@niftyの「翻訳フォーラム」をフル活用

翻訳という業界には、自分が勤める会社や業界の常識とは異なる業界常識がある。独習では、翻訳という仕事に必要な各種の基本動作を身につけるのも困難だ。効率向上のノウハウや便利ツールなども、自分1人の知恵や知識だけではなかなか集まらない。ステップアップするためには、他のプロ翻訳者たちがどのような工夫をしているのかといった情報の収集が必要なのだ。

情報収集には、パソコン通信が便利である。居ながらにしてさまざまな情報を入手することができるからだ。

翻訳者が集まって情報交換をしている場所として一番大きいのは、@nifty内にある翻訳フォーラムだ。ここでは、訳出に関する疑問や各種便利ツールの情報、翻訳会社などへのアプローチの仕方、専業・兼業の場合の税金申告など、さまざまな話題について情報交換が行われている。

私も、仕事としての翻訳に対するプロの基本姿勢や仕事で必要な基本動作、必要機器、便利ソフトなど、さまざまなことをこの翻訳フォーラムで学んだ。翻訳の仕事を始めた時点で、私は、自分の専門の参考資料以外は、中学時代から持っていた英和中辞典などの辞書少々と留学中に購入したシソーラスとLongman英英(すべて紙の辞書)くらいしか持っていなかったし、翻訳者として当然身につけているべきスキルもなかった。今思えば、これでよく仕事ができたものだと思う。そんな私の翻訳者としての力が急速に伸びたのは、翻訳フォーラムのおかげだといっても過言ではない。

こうした場所は情報の宝庫であり、読んでいるだけでもかなりの情報収集が可能である。しかし、自分から積極的に参加すれば、さらに多くの、そして深い情報を得ることができる。ただ、サラリーマンと兼業している場合、自分が翻訳をしているということを不特定多数に公開するわけにはいかない。そういう意味でも、パソコン通信による情報収集がお勧めだ。翻訳フォーラムでは、ハンドルという一種の愛称を使うことにより、匿名性を確保できるからだ。フォーラム専用に@niftyのIDを1つ取得すれば、サラリーマンとしての自分と翻訳者としての自分を結びつけるものはなくなり、安心して情報収集を行うことができる。

積極的に参加すると人脈も広がる。フリー翻訳者にとって、人脈は最大の財産だ。仕事を紹介してもらえることもあるし、自分が苦しいときに助けてもらえることもある。また、独立するにあたって、いろいろと相談できる相手が得られることもある。匿名性を確保しながら人脈形成ができる場所は、パソコン通信以外にはちょっと考えられない。

最終的に独立した場合、さらにステップアップが必要になる。私は、ここでも前述の翻訳フォーラムを活用した。

二足のわらじから専業に移行すると、当然、受注可能量は増える。それだけの仕事量を確保するためには、自分の専門だけにかたまらず、ある程度、広い範囲の仕事を受けられるようにしなければならない。そのためには、資料の整備は当然として、専門知識に頼った翻訳ではなく、専門知識と言語の両面のバランスの取れた翻訳技術を身につける必要がある。つまり、サラリーマン時代に培った専門知識が通用する間に、普通の翻訳者に脱皮しなければならないのだ。このような脱皮の必要性も、また、脱皮するために身につける必要のあるスキルも、私は、翻訳フォーラムに集まるプロ翻訳者から学んだ。その結果、非常に短期間で脱皮できたと思う。もちろん、吸収すべきこと、身につけるべきことは、まだまだ無限にある。これからもこういった場を最大限に活用していくつもりだ。

■独立後の生活
◎「自由業は不自由業」を痛感する毎日

二足のわらじで目処をつけ、最終的に独立すると、生活は大きく変わるのだろうか。

フリー翻訳者には宵っ張りの朝寝坊が多いが、私は朝型であるため、フリーになっても生活時間はあまり変化していない。普通に朝起きて、子どもを保育園に送った後、夕方まで仕事という生活をしている。

一番大きな違いは、通勤がなくなったことと時間のやりくりがきくようになったこと。通勤がなくなった分、子どもと過ごす時間が増えた。また、時間のやりくりがきくため、子どもが急に熱を出したときなど、午前中に医者に連れていって、その分、翌朝早く起きて仕事をするというようなことができる(締め切り直前だったりすると、嫁さんが仕事を休んで医者に連れていくこともある)。この辺りは、独立を決断した際の狙いどおりだ。

実は、目算が狂ったこともある。仕事量を調整して、もう少し時間的に余裕のある優雅な暮らしができるかと思っていたのだ……独立前にも「自由業は不自由業」とか「クライアントの自由になる業」とかいう言葉を漏れ聞いていたが、最近、この言葉がよく理解できるようになった。私は、基本的に土日は仕事をしないことにしているのだが、月曜納品という仕事も多く、スケジュール管理に失敗すると、土日に仕事をせざるをえなくなる。サラリーマン時代、平日に夜12時過ぎまで仕事をしても休日出勤をしたことは一度もなかった私としては異例の事態だが、独立自営として責任がある以上、仕方がない。

いいことばかりではないが、時間的にメリットがあり、かつ、収入の方も会社員時代を上回っているのだから、これ以上を望むのは贅沢というものであろう。私は、独立して技術・実務翻訳者となってよかったと思っている。

なお、独立後2年たたずして今のような状態になれたのは、翻訳フォーラムなどを通じて得た多くの友人たちに負うところが大きい。有形・無形の支援をしてくれた友人も多いし、私が勝手に学ばせてもらった友人は数知れない。最後となったが、そのような友人たちに対し紙面を借りて感謝したい。

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