原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む。
私が翻訳するときのモットーのようなものがある。それが表題の「原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む」だ。別の言い方をすれば、↓のようになる。
翻訳者は、原著者の代弁者として、原著者の意図が読者に正しく伝わるように橋渡しをすることが仕事だ。だから、まず、書いた人が言いたかったことを最大限読み取る。その上で、原著者が言いたかったことが分かるように、できれば、言いたかったこと以外の解釈が成り立たないように書くということが翻訳者のやるべきことだと思う。
そのために、原文は、書いた人の立場でできる限り親切に読む。逆に、自分が書く訳文は、意図した意味合い以外にとれないか、なるべくいじわるに読む。
翻訳フォーラムなどでの議論でも、原文解釈の段階で「ああもとれる」「こうもとれる」「こういう取り方をする人だっている」という話が出ることがある。その中で、原著者が書きたかった内容はどれなのかを判断するのが、翻訳者としての解釈。ところが、ときどき、「いろいろに取れるのだから考えても仕方がない」とか「自分の解釈のようにとる人がいるかもしれないから、自分の解釈は正しい」というような展開を見ることがある。
そんな風に原文をいじわるに読んでも、書き手が下手だ、原文が悪文だと愚痴のタネにこそなれ、翻訳の役にはあまり立たない。
訳文を書くときに、そういう別解釈がなるべく減るようにする役には、多少、たつかもしれないが。
また、訳文の検討でも、「原著者の意図のように訳文を解釈することが可能だから、この訳文でいいんだ or 十分なんだ」といった主張もときおり見かける。ひどいケースでは、「ちょっとわかりにくいかもしれないが、考えれば~という意味であることがわかるはず。だからいいんだ」などという主張も耳にしたことが、複数回、ある。
原文を読んだ人間が訳文を親切に解釈したのと同じ解釈を、訳文だけを読まされる読者にしろというのは、かなり無体な要求だと思う。少なくとも、カネをもらうプロのすることではない。だましだまし動かせばなんとか動くという自動車が売り物になるはずがないのだから。「考えればわかる」のなら、それを考え、「考えなくてもわかる」訳文にするのがプロの仕事。
「考えればわかる」は誤訳に等しいと私は考える。そのあたり、詳しくは「誤訳とは?」を参照のこと。
冒頭の「原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む」は、↓のように言い換えられる。
- ソース言語は、真意をくみ取る読み方
- ターゲット言語は、なるべく別の意味にとろうとする意地の悪い読み方
両者で読み取る意味や情報が一致すればベスト。ただ、翻訳では微妙に意味範囲にズレが生じる。しかも、ターゲット言語で書いた文章が一つの意味にしかとれないことは珍しく、大抵は複数の意味に取りうる。それでも、意味の振れ幅を狭くすれば、誤解される危険性は小さくなる。また、文章ひとつの意味が多少ブレたり原文とズレたりしても、前後の文で修正なり意味解釈の幅を狭めるなりしてやれば、誤解・誤読される危険性がさらに小さくなる(=誤訳となる危険性が低くなる)。
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